坪井慶介は飄々と記者たちの前に現れる。
「僕(ネタを)持ってませんよ」などと言うが、
決してぞんざいな態度ではない。
相手が質問してくる限り丁寧に答え続ける。
表情を大きく変えることもなく、
ほんの少しだけ笑顔を交えながら淡々と話している。
2002年、日韓ワールドカップが終わった直後から注目を集めた。
その年にJリーグ最優秀新人賞に選ばれ
日本代表チームにも選ばれる。
プロになる前に受けた警告は1回だけ。
しかも味方選手の責任を主将として肩代わりしたものだった。
そんなエリートの好青年は生き様を変えずに15年過ごしている。
だが周囲は気付いていなかったかもしれないが
心がささくれ立ったこともあったそうだ。
それでも家では辛さを見せなかったという。
見た目が変わらないのは
「髪型が変わらないのは大きいかもしれませんね」という。
でもそれだけではない。
感情の揺れが少ないことや
いつも配慮の行き届いた言葉を使うことなど
坪井は元々が落ち着いた人間なのだ。
そんな坪井が今でも心のさざめきを憶えているとき。
2011年シーズンの思い、
2006年ワールドカップでの後悔と代表辞退の真相を語ってもらった。
精神的に辛かった2011年のケガとの戦い
僕が辛かったのは……大きなケガは辛かったですけどね、乗り越えやすいというか。肉体的なものはじっくり時間を掛ければ治るものだから。それより精神的な部分ですね。精神的な部分では、2011年、ゼリコ・ペトロヴィッチ監督のときでしたかね、辛かったのは。
その前がフィンケ監督で、次の監督のサッカーがフィンケ監督とつながっていたかというと、そうではなかったですね。出場時間も減ったし、そういうことも含めてその時期は精神的に辛かったという感じがします。
ただ、とうていそこで終わるつもりはなかった。そして逆に「自分を見つめ直す期間」だと、どこかで割り切って出来た部分もありました。だから非常にトレーニングに集中できたというか。チームトレーニング以外の部分でもできましたし。
でも、辛かったのは辛かったので、いろいろ演じてました。
僕は家に帰ってまったくサッカーの話をしないんです。逆に心配されちゃうくらい。うちの妻とかも、ものすごく心配して「大丈夫? 今の状況わかってる? 試合に出てなくてメンバーにも入ってなくて、大丈夫?」って。「いや、大丈夫だよ、別に」って答えてね。
家では普通に振る舞ってました。まぁ何となく自分の中であるんですけどね。家に入ったらやっぱり家族との時間があるから。その別空間があることは僕にとって非常に切り替えられるんで。
そうやって普通に振る舞ってても、やっぱりなかなかこう……ね、どれだけ自分がいいコンディション、パフォーマンスをしても何か……成果が出ないんじゃないかという感覚は凄くありましたね。最初はやっぱりそれがきつくて。どっかの瞬間で何となく、こう……もちろん移籍とかそういうこともね、代理人からも他のクラブの話がありましたけど、途中から「もうオレはここでやる」って宣言して。
乗り越えた瞬間とかは……なんでしたかね。ぱっと切り替わった感じじゃないんですけどね。ちょっとずつ。毎日、毎日、サボらないでやることしか出来なかったんで、僕には。特筆すべきテクニックはないし。
結局は努力続けるしかないと思ったんで。今もそうですけど、その当時も。結局自分のサッカー人生辿っていくと、そんな感じなんですよ。飲みに行くのも嫌いじゃないんですけど、そんなに大酒飲んで鬱憤を晴らすというのもないですし。だから日々トレーニングをすることが、自分にとって力を溜める時期なのかなぁって思いながらやってたんで。
他の選手に辛く当たったかなぁ……どうなんですかね。最初のほうはあったんじゃないですか。当たると言うより、なんですかね……ちょっと構わないでほしいなって。たぶん、自分の中ではありましたよ。オレはもう自分のことだけやるから、ちょっと放っておいてくれって。今だから言えますけど、チームがどうなろうがもうオレは知らない、オレはもう自分のことだけやるって気持ちになってました。
そんな気持ちなのは周りに悟られたくないとは思ってましたけどね。でも何となく、僕がそういう気持ちだと思っていた人はいたかもしれない。だけど翌年は、前の年にサボらなかったことが結果として出たと思います。サボっちゃったらダメになっちゃうんで。サボってもやれる才能ある人は羨ましいですよ。
今も心に引っかかっているドイツW杯の敗退
2002年にJリーガーになって、その年から日本代表には選んでもらって、2003年6月11日のパラグアイ戦で国際Aマッチデビューしました。Jリーグでは最優秀新人賞をもらいましたけど、おっかなびっくりでした。そして代表も、そんなスピードで選ばれていくなんて、全然予想してなかったですけどね。もちろんプロである以上は代表チームに入りたいという思いはありました。けれど、自分の想像より、はるかに早くそういうチャンスが訪れたという気もありました。
これって全部人に恵まれたからなんですよ。もちろん努力してきたという自負はありますけど、努力してもダメなときはダメなことってある。だから努力をしたことプラス、サッカー始めた幼いころから、運良く指導者に恵まれてきたかなぁって。
多摩に生まれて三重県の四日市中央工業高校に行って、福岡大学に進学して、その間にずっと人の助けがあったと思います。レッズに入ったときもハンス・オフト監督がいたし。あの人じゃなかったら、大卒のよくわからない坊主の細いヤツを、ちょっと速いからって、いきなりスタメンで使わないですよ。
ただ、代表に行って最初はずっと出られなかったんです。出場できるようになっても、ちょうどそのころケガもしてしまって。治ったあとは代表に呼ばれるけど、試合に出たり出なかったりという繰り返しでした。
代表では常に「次は選ばれないかもしれない」という危機感があって、その中でやってる感じでした。でも、その緊張感がやっぱり僕は代表のあるべき姿だと思います。もちろん自分のチームでも常に争いがあって、それがさらに代表ということになると、もっとあって当たり前なんです。
そしてなんとか2006年ドイツワールドカップのメンバーに入りました。だけど初戦オーストラリア戦で足がつってしまったんです。それまで足がつったことなんてそんなになかったですけどね。僕の場合は緊張もあったと思います。コンディションはいいと思ってやっていたのですが……。
足をつったときって、一カ所なら、何となく普通にプレーできることはあるんです。けれど、このときは一度に四カ所ぐらい痙攣した。ふくらはぎ、大腿筋2カ所、ハムストリング……。だからすぐダメだと思って自分でサインを出しました。動けないんです。結構衝撃的なつり方でした。あそこでね、チームは交代枠を一枚使っちゃったってこともあるし、急きょ後ろを変えなきゃいけない……というのはプラスじゃないですよね……チームにとっては。
もったいなかったですね。あのときのチームは。ほんとうにもったいなかった。確かにチーム全体のコンディションは悪かったかもしれないですね。ピークを大会に持っていけなかったかも……大会前にピークが来てたかもしれません。その感じはなんとなくあります。
初戦が逆転負けで終わった後……いや初戦に向かうまでのところで、やっぱりもっとできたことがあるんじゃないかなというのは今でもありますけどね……。もっと何か、もっとできたんじゃないかなって……。
あのとき僕の年代って中堅よりもまだ若い感じの立場だった。だけどチームは、日本の代表として大会に行ってるわけですからね。チームに対してもっと積極的なアプローチすることがあったんじゃないかと。チーム以前に自分のことについても、もっとやることがあったんじゃないかなって……それは……ずっと思ってますよね。そしてあのときのことがあるから、そういうふうにならないように……そう思って今までずっとやってきました。
オシム監督から岡田監督に代わったとき、フッと何かが切れた
代表チームにずっと選んでもらっていたのですが、2008年2月8日に、自分で引退宣言をしました。勘違いしてほしくないんですけど、岡田武史監督になったから代表を辞退したんじゃないんです。岡田監督にももちろん直接話をしています。
確かにイビチャ・オシム監督がいなくなったという精神的なダメージは相当ありました。けれど、でも僕はオシム監督のときも多分半年ぐらい試合に出てないんですよ。2007年7月に、ベトナム、インドネシア、マレーシア、タイの4カ国で開催されたアジアカップのときも、僕は1試合も出ていませんから。
その時期ぐらいから悩んでいたんです。ああ、本当に自分はこのチームに必要なのかなぁって、悶々と。
代表には行きたいし、選ばれるのはすごく名誉なことで光栄なこと。サッカー選手だったら誰もがそこに入りたいというチームに自分が選ばれてる。だから別に出られなくったって、代表チームのために全力を尽くすことは当たり前。そう思っている自分と、ベンチに座って、トレーニングして、試合のときにはみんなのサポートして、選手としてそれでいいわけないじゃないかと考えている自分と。
そこのバランスがあって、そのバランスを保つことで一生懸命になって。そんなの贅沢な悩みと言われればそうなんですけど、でもその当時は辛かった。「不満なんて言ってちゃダメだ、頑張らなきゃ」「頑張ってもでも出られない」「なんだよ、来ても意味ないじゃん」「それじゃダメだ」って自問自答が続いてた。
自分の中でその繰り返しがだんだんキツくなってきてたんです。それで、オシム監督から岡田監督に代わったとき、フッと何かが切れちゃったというか。岡田さんに呼ばれたときにも頑張ってやろうと思ったけど、何か気持ちが入らなかった。そのときに「ああ、これじゃもうオレはここにいる資格がない」と思って。それで岡田さんに相談して代表を辞退することにしました。
相手を止めるのに手を使いだしたプレーヤーってそこから伸びない
これまでのサッカー人生でイエローカードやレッドカードが少ないのはたまたまですよ(プロ生活15年で警告2枚の退場と一発退場は1回ずつ)。それには秘訣があるんです。ガチャッとやったとき、すぐレフェリーに「ごめんなさい」って頭を下げる。僕はレフェリーに対して「どうしてこれがファウルだよ」って言わないんです(笑)。
このファウルが少ないのも、幼いころからそういうのを教えてもらったのがですからね。ファウルするなって言われた覚えがあるんです。「ファウルをしないで奪いなさい」って。僕は小さいころからDFだったので、それが染みついたんでしょうね。四日市中央工業高校の樋口士郎監督もそういう指導者でした。「正々堂々やるからこそ、人としてもサッカー選手としても成長するんだ」って人だったんで。
でもまぁ、僕もずるくなりました(笑)。ただ根本はファウルをしないことが大切だと思います。「ファウルをしないで止める」ということにこだわらないと、守備の根本的な能力が上がらない。その上でいろんな経験をしてからの、「プロフェッショナル・ファウル」かなと。相手を止めるのに手を使いだしたプレーヤーってそこから伸びないですからね。
37歳になったけれど、そんなにスピードが落ちたとは自分では感じてないんですよ。あとはそれをどれだけ持続できるか。自分自身を客観視すると、ダッシュできる回数はちょっと落ちてくると思いますが、そこは「そんなことない」って意地を張るんじゃなくて、受け入れてトレーニングやっていかなければいけないですね。
スピードを保つため、体を維持するために食事で考えていること……って、残念ながらないんですよ(笑)。まぁ1つ挙げるとしたら、妻がとてもよくやってくれてるってことでしょうか。それのおかげですね。妻が非常によく食事のことをやってくれるんで、それをバランスよく食べる。それだけです。
甘いのも辛いのも大丈夫です。結構、なんでもいけちゃいます。濃い味が好きかな。九州の味が好きですから。大学で九州に行ったとき、九州の味にドハマリしちゃって。実家に九州の醤油を持って帰ってこれを使ってくれって言ったぐらいなんですよ。九州の醤油ってちょっと甘いんですよね。
どこかオススメのラーメン屋さんってありますか? もともと関東出身なんで、食べられないのはないんですけど、関東では本当に九州っぽいラーメン屋に出会ったことがなくて残念なんです。
あとはモツ鍋が食べたいかなぁ。九州ではモツ鍋にもいろいろあるじゃないですか。すごく濃い、しっかりニンニクの効いたミソっぽいのがあったり、水炊きだったり。九州じゃ別に有名店じゃなくても普通においしいモツ鍋がありますからね。
そうそう、「酢もつ」ってこっちにないですよね。向こうだとスーパーに売ってるのに。僕は「酢もつ」好きすぎて、大学のときよく買って食べてました。浦和にいるとき、久々に「酢もつ」食べようと思っていろんなところ探しても、「あれ? ない」って。4年間で完全に九州に染まっちゃって、普通に「酢もつ」があると思ってました。ぐるなびさんには、おいしい「酢もつ」、もつ鍋、水炊き、ラーメンの店を教えてほしいです。
それから、九州にいたときはおいしいトリ料理がたくさんありました。こっちだと、茅ヶ崎に地鶏がおいしいところが一軒あります。宮崎地鶏を食べさせてもらえるところを見つけたんですよ。駅の南口のすぐ近くで、「庭とり屋」という名前です。ニワトリ料理ばっかりで、鳥刺しやチキン南蛮とか、トリばっかりで本当においしいですよ。
サッカー人生で初の「昇格」を味わいたい
今、こうやってベルマーレに移籍して、2017年で3シーズン目ですね。レッズにいた時期に比べると、やり尽くすほど試合に出てというわけではないですけど、何か今、非常に充実してやってます。
ベテランになって経験で考えられることはありますから、そこを落とさないというか、さらに出来るようになっていけば、自分としてはプレーだったり、選手としての価値を高められるんじゃないかなと思っています。
2017年は初めてJ2で戦うことになりました。2016年は何とかこのチームをJ1でやらせたいって、偉そうですけど、思ってたんで、非常に自分の力不足を感じてます。ただ、そんなことを今言っても仕方ない。自分たちがやって来た結果なんで。もう次を見据えるっていう気持ちに切り替えました。
まぁ「降格」を初めて味わったけど、僕はサッカー人生で「昇格」ってのは、まだやってないんでね。そういう意味では新しい経験に対してのモチベーションが高いんですよ。
坪井慶介 プロフィール
福岡大学を卒業後、2002年に浦和レッズへ入団。初年度からレギュラーとして活躍し、新人賞やベストイレブンを受賞。ジーコ監督率いる日本代表にも招集される。
日本代表としては2006年のドイツW杯に出場。その後のオシム監督、岡田武史監督にも招集されるが、2008年に日本代表を引退。
2015年からは湘南ベルマーレでプレーしている。
1979年生まれ、東京都出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。