アルベルト・ザッケローニ監督に呼ばれ続けた
ヨーロッパでは尊敬する監督の信頼もつかむことができた
細貝萌のサッカー人生は人の信頼を得続けてきた
実直なプレーぶりはそんな人柄を表している
だがもちろん苦難のときが無かったわけではない
自分の願うポジションで勝負できなかったときも長い
監督が代わったことで悲哀も味わった
ワールドカップには行くことができなかった
苦しい状況に陥ったとき
細貝は何を思って抜け出したのか
今でも言葉が詰まる一番辛い体験は何だったのか
オススメの高級店とともに聞いた
チームを陰で支えていくのが自分の役割
僕のことを「労を惜しまないタイプのプレーヤー」って言ってくれる人がいるんですけど、そこがやっぱり自分のストロングポイントだと思うし、そういった献身的で泥臭いプレーをやらないと自分じゃないのかなと思ってます。自分の調子がいいとき、うまくいってるときほど、そう思うことができますし。
元々花形の選手という感じではないので。華麗なプレーをするわけでもないし、派手なゴールを決められるプレイヤーでもない。年齢ももう32歳で、これからどういう選手生活を送っていくか自分でもわからないですけど、これからもそういった自分のスタイルにこだわって、チームの……土台というか、チームを陰で支えていくようなプレーができればいいなと考えています。
2005年に浦和レッズに入ってから、プロのサッカー選手として10年以上ですね。その中でうまくいかないことは何度もありました。うまくいかない試合とか、場合によっては1試合2試合だけではなく、うまくいかないシーズンとか、この監督の下ではなかなか試合に出場できなかったとか、海外でも日本でもそういう経験をして、精神的に相当厳しいときは何度も経験しました。
でも、よくない精神状態でプレーしていると、結局一番気持ちよくないのは自分なんです。たとえば「ネガティブな状態で練習に入ってしまうと、「頑張ってやろう」と思ってても気持ちや体がついていかないときがあります。そういうときって練習が終わってからすごく後悔するんですよ。
「今日の練習は全然集中できなかった」とか思ってたりしてると、翌日の練習が始まるまでネガティブな感情を引きずってしまうことがあります。「あぁ、なんか今日の練習ダメだったな」とか「昨日の練習ダメだったな」って、家でふと思ったり。
しっかりトレーニングに取り組めたときって、試合に出てるかどうかという自分の立場は変わらないとしても、充実感があります。「今日、しっかり練習やれたな」って。練習が終わっても、気持ちよく家で生活できるとか、そういうポジティブな感情につながるので。
モチベーションの持ち方って最終的には自分自身である程度コントロールできるものなんですよね。この部分は、選手として色んな経験をしてきたことで成長できた部分だと思っています。
そうは言っても、今でも、「今日は本当にうまくいかなかった」というときもありますよ。プレー面もそうだし、精神的に、たとえばミスしてしまった後に頑張りきれなかったり、自分がミスしたのに追わなかったり、というのがあって、そうすると100パーセント出せなかった自分に対して後悔するんです。練習が終わった後に。
練習のときは「何だよ」とか「うまくいかないな」とか言って、そういう態度になってしまって、それで終わるんですけど、いつもやっぱり後悔するから。だからそういうのがないように、過ごしていくことが大事だと思っています。
ドイツへの移籍当初は苦しかった
2011年にドイツ・ブンデスリーガ2部のアウクスブルクに移籍したとき、最初は全然試合に出られなくて、あのときも苦しかったですね。でもそのときはヨス・ルフカイ監督がすごく自分をケアしてくれてたんです。
アウクスブルクに移籍した当初は、コンディションをなかなか上げることができなくて、プレーのクオリティがよくなかったというのは自分でも理解してたんです。ドイツ語もなかなか理解できてなかったし。そういう苦しいときにルフカイ監督は、僕のことを気にかけてくれてたんですよ。
その時は試合に出場できてなかったし、監督の立場から考えたら、自分はスタメンで選んでいる11人以外の選手じゃないですか。でも監督はそんな僕にもしっかり話をしてくれました。「今は出られないけど、必ずチャンスは来る」って。しかも1回じゃなくて定期的に言ってくれてたから。
当時の僕は日本からドイツに行ったばかりで、「やっぱり通用しないかも」「やっぱりヨーロッパの選手はJリーグとは全然違う」「体も大きくてフィジカルも強いし、この世界で自分は通用しないんじゃないか?」って少なからず思っていたんです。試合にもなかなか出場できない状況が続いていましたし、2部の上位にいたとはいえ、その上には1部(ブンデスリーガ)もあるわけだし。
でも監督が定期的に「どうだ?」って言ってくれたり、ドイツ語があまり話せなくて通訳もいなかったんで、僕がわかる簡単なドイツ語と英語を交ぜて親切に言ってくれてたんですよ。それはすごく助かりましたね。
「こういうプレーを評価してる」「こういうプレーをやってほしい」と明確に言ってくれたんです。僕の人間性も評価してくれてたし。「今は試合に出られない、使ってないけど、必ずお前の力が必要になる」ってずっと言ってくれてたんで。
ただ当時の僕は、監督はそう言っていてもメンバーには選んでくれていないから、半信半疑な部分はあったんですよ。でも、トレーニングで頑張っていたら、実際監督が言ってくれてたとおりに使ってもらえたというか。
ブンデスリーガ1部への昇格を争っている中でも徐々に出場できるようになりましたし、ブンデスリーガ1部に昇格してもほとんどの試合にずっと使ってくれました(34試合中32試合出場。うち不出場の1試合は警告累積による出場停止)。
アウクスブルクとはレンタル移籍だったので、2011ー12のシーズンが終了してから契約元のクラブであるレバークーゼンに戻ったんですけど、ブンデスリーガのクラブの中でも名門クラブだったので、正直アウクスブルクとは全然違うレベルのクラブでした。
選手のクオリティも1ランク2ランク上がる感じで。その分、給料とかもグンと上がるクラブなんです。だからレバークーゼンには現役ドイツ代表がいて、元ドイツ代表もいて、各国代表選手が集まって。スター選手たちをどんどん集めているというクラブでしたね。
それまで1シーズンをブンデスリーガでプレーしていたとはいえ、いざレバークーゼンのトレーニングに合流すると「うわ! レベル高いな」って正直感じましたね。でも、チェコ代表とポーランド代表のサイドバックがいたんですけど、彼らがケガをしてそのポジションが空いて、そこに自分を当ててくれたんです。
各国の代表が集まっているレバークーゼンでもシーズンの半分くらいの試合で出場できましたし、もっと高いレベルでプレーできているという印象もあって、充実したシーズンだったと思います。
そうしたら2012ー2013シーズンが終了してから、ヘルタ・ベルリンにいたルフカイ監督がオファーしてくれたんですよ。うれしかったし、当時は若かったんで、レバークーゼンで務めてたサイドバックよりもボランチで勝負したいという気持ちもあったんです。
ただ、レバークーゼンは僕のことを「いろんなポジションをできる」とか、トレーニングにしっかり取り組むという部分も評価してくれてて。「残ってほしい」と言うオファーも頂いていたんです。レバークーゼンみたいなビッグクラブに評価してもらっていたことは自分にとっても非常にうれしいことでした。
しかもレバークーゼンは2012ー2013シーズンのブンデスリーガで3位となり、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得していました。そのまま残れば、チャンピオンズリーグの試合に出場できる可能性があったんです。
チャンピオンズリーグには出場したいし、自分のことを評価してくれているレバークーゼンでもプレーしたいし。レバークーゼンに行くときは当然レバークーゼンでずっとプレーしたいと思っていたので。
でもルフカイ監督から直接電話をもらって、自分を評価してくれている言葉を聞いたときに、「あ、これはベルリンに行くべきだ」と思いました。しかも言葉だけじゃなくて、待遇面でもクラブからきちんと評価を頂きました。ベルリンも気持ちを込めて自分にオファーをくれたというのは思いました。だから電話で話した時点で迷いはなくなりましたね。
恩師・ルフカイ監督と巡り会えたのは幸せ
ルフカイ監督はやることが明確だったし、選手との距離感もうまかったと思いますね。もちろん自分がコンスタントに使ってもらったというのは大きいと思いますけど、でも、ルフカイ監督は僕を最初からずっと、何があっても試合に出すというわけではなかったんです。選手間での競争をしっかり見ている監督だったと思います。
トレーニングの中で次第に監督の信頼をつかんでいけたというのは感じましたね。それから、最初にアウクスブルクで会ったときの僕は、ドイツ語が本当にわからなかったんですけど、ベルリンで再会したときはドイツ語での会話がだいぶできるようになってたんです。
チームの状況が厳しいとき、ルフカイ監督から個人的に電話がかかってくるんです。練習の日とか、練習が夕方の日のランチタイムにかかってきて、「いま時間あるか?」。「特に予定はないです」「じゃあ、ちょっと話をしよう」ってクラブハウス近くのカフェで待ち合わせしたりして、「チームの状況はこうでうまくいってない」と。
「チームを見ててどうだ」とか「もっとこういうふうにしてほしい」とか、そういう明確な話がありました。僕だけじゃなくて他の選手にもそうやっていたと思うし、僕はあの監督と巡り会えたのは幸せだったと思います。
ルフカイ監督の下にいたときは自分もいいプレーができていたと思います。自分としてはルフカイ監督に出会えて、その下でプレーできたというのは、とても価値のある経験でしたね。
ベルリンに移籍してから2シーズン目の途中で監督がハンガリー人の監督になりました。そこから状況が一変して、自分の中ではすごく難しい時間になりました。
もちろん新しい監督が来る時というのは、以前の監督には試合に使ってもらっていた場合でも、このまま続けて頑張ろうと気持ちを新たにしますよね。新しい監督の下でも自分がベストを尽くせば試合に出られるだろう、だからベストを尽くそうと思うんだけど、評価してくれるポイントがそれまでとは異なったりすることもあって、実際には思ったようにうまくいかなくて。そうするとなかなか自分らしさが出せなくなったり。それは厳しかったですね。
そのあと2015年にはレンタルでトルコのプルサスポルに移籍しました。しかも移籍期間が終了する直前の8月末、すでにシーズンが開幕している中でトルコに行ったんですよ。もう数試合終わってて。
チームもヨーロッパリーグの予選で負け、リーグ戦でも4連敗ぐらいしてる状況で、「そろそろ監督が交代するんじゃないか?」って噂されてる最中でした。移籍して何試合かはその監督だったんですけど結局解任されて、新しく来た監督もまたすぐ代わって。
トルコにいた1シーズンの間に、結局3回監督が交代になり暫定の監督も含めると、1年で4人の監督の下でプレーしました。トルコは、極端な言い方をすると3連敗、4連敗したら監督はクビっていうような世界でした。
ドイツとも、日本ともまったく違う新しい文化の経験ができたと思います。競技の部分だけでなく、生活面の文化でもそれまでとはだいぶ違いましたし、非常に良い経験でした。
ブルサスポルへの移籍はレンタル移籍だったので、シーズン終了後にはベルリンに戻りヘルタで新しいシーズンの再スタートとなりました。この時も8月末の移籍マーケットが閉じるギリギリというときに、ドイツのクラブ数クラブからオファーを頂きました。
そのうちのひとつが2部に落ちたシュトゥットガルト。アウクスブルク、ベルリンで一緒にやったルフカイさんが監督になっていて、オファーをもらったんです。他のオファーの中にはブンデスリーガ1部のクラブもあったんですが、ベルリンがオフのときに、ルフカイ監督と会って話をして、シュトゥットガルト行きを決めたという感じです。
でも、ルフカイ監督の誘いを受けてシュトゥットガルトへの移籍を果たしたものの、チームの強化部と監督の意見が合わなくなってしまい、開幕数試合でルフカイ監督が辞任してしまいました。これにはちょっと複雑な事情がありました。
少し背景を説明すると、シュトゥットガルトはその前のシーズンにうまくいかなくて41年ぶりに2部に降格したんです。ドイツ国内でも名門クラブだし、なんとしても1年で1部に復帰しなきゃいけないという状況になりました。
そこでチームスタッフを一新することになり、スポーツディレクター(日本で言うチーム編成を担う強化部長)と監督が新たに決まったのですが、この時はスポーツディレクターよりもルフカイ監督のほうが先に決まってたんです。これが結局のちに問題となりました。
普通であればサッカーチームの監督の人選は、スポーツディレクターが決めることが多いんです。スポーツディレクターがチームの方向性を決めて、それに合う監督を選ぶことが多いんですけど、そのときのシュトゥットガルトは監督が先に決まって、その後にスポーツディレクターが決まるという逆の順序でした。
その結果、最初の数試合が終わったあと、スポーツディレクターと監督の方針が合わないということになり、ルフカイ監督が自ら辞任するという流れになったんです。
信頼していたルフカイ監督がいなくなってしまったことは残念だったんですけど、僕は監督の気持ちがすごく理解できたんです。それは長い間一緒に仕事をしてたからだと思います。自ら辞任することが必ずしも良いことではないですけど、プロのサッカーチームを構築するうえで、方向性が違う人と仕事をしても、基本的にはうまく行かないと思います。
監督がほしいタイプの選手とスポーツディレクターが連れてくる選手のタイプが違えば、チームの方向性が統一できない。そうすると監督も自分のベストを尽くせないだろうし、この時の監督の決断はプロだったと思います。
それでルフカイ監督からハネス・ヴォルフ監督に代わって、最初は使ってもらっていました。けれど、練習の中の接触プレーで、左足の小指を別の選手に踏まれてしまって骨折してしまったんです。でも、その次の試合は麻酔の注射打って、骨折したまま出たんです。
もちろん練習も満足にできなくて、試合前日まで靴も履けない。そんな状態で試合当日だけ痛み止めの麻酔注射を打って。麻酔を打つともう感覚がないから痛くもないし、プレーはできたんです。
ただ麻酔が切れてしまうと、翌日からもう足も地面につけないし、痛くて歩けないわけですよ。そんな状態なのに、次の試合でまた注射を打ってプレーするというのは、コンディションを上げている他の選手にとっても失礼だと思って、「出場するのは止める」と言って、そこから骨折が治るまで1カ月以上別メニューで離脱したんです。
シュトゥットガルトは元々2部にいてはいけないクラブだし、地力もあるので、自分が離脱している間にも結果は出しますよね。基本的には結果を出している間は出場している選手が継続して使われるんです。
ただ離脱している間も、ヴォルフ監督はすごくコミュニケーションを取ってくれていました。自分はなかなか試合に絡んでいけなかったけど、ヴォルフ監督のパーソナリティはプロの監督としてもリスペクトできるものだったと思います。
W杯直前で日本代表から落選した苦しさ
日本代表でも、基本的には途中から試合に出場するという、そういう起用のされ方でしたね。アルベルト・ザッケローニ監督は就任したころからワールドカップの直前まで、ワールドカップの本戦だけは行けなかったんですけど、そこまでは選んでくれていました。
代表は代表で、すごく高いモチベーションで行ってたし、ヨーロッパから日本に戻って代表の試合があって、すぐヨーロッパに戻ってすぐ試合に出るというスケジュールだったんですけど、その間、やっぱり所属しているチームでも充実したプレーができていたので、自然と代表も充実していたという感覚がありました。
ブンデスリーガでコンスタントに試合に出てたから、ヨーロッパから十数時間かけて帰国して代表で試合に出場できなくても、またクラブに戻ったらすぐ試合に出られる可能性が高かったですし、代表でなかなか出場できていない分、所属しているチームで結果を出そうと思ってたんで、すごく充実してました。
ただ、やっぱり精神的には難しかったですよ。寝られないときもたくさんあったし。「何のために代表に来たんだろう?」と思うことってたくさんありました。日本代表の試合が2試合あるのに、2試合合わせて数分しか出ないで終わったりとかしましたから。
日本代表といえば、2011年カタール・アジアカップ、準決勝の韓国戦でのゴールを今でも覚えてくれてる人がいるんですよ。1ー1で迎えた延長前半7分にPKになって、本田圭佑が蹴ってGKが弾いたところを押し込んだ得点ですね。
自分の前にこぼれてくるというラッキーなところがあったし、あれは圭佑が決めてれば何もないで終わったんですけど。結局、延長後半の終了間際に点を取られてPK戦になったじゃないですか。
川島永嗣さんがシュートを止めて勝ったんで、結果的に僕のゴールが直接的に勝敗に影響はしなかったんですけど、そうやって覚えてくれてる人がいるというのはうれしいですよ。あのアジアカップが取れた、その日本代表の一員だったというのは僕の中ではすごく誇らしいことです。
でも、ワールドカップだけね。……それはね、サッカーだけではなくてどこの世界もそうだと思うんですけど、最終的なメンバーは監督が決めることなんで。選ばれなかったことは仕方がないと思っています。確実にメンバー入りできる実力がなかったという証拠だし、でもやっぱり……。
自分はベストを尽くしてた思ってるし、それで呼ばれなかったのはしょうがないと思っています。
でも、身内だったり、応援してくれてる人がすごく悲しんでくれるのがわかるんですよ。自分が悲しかったり苦しかったりすることよりも、そのことが一番辛かったです。これは自分としてもとても難しかったですね。本当に辛かったです。それだけが辛かったですね。家族もそうだし親もそうだし。普段仲良くしてくれてる人たちもそうだし、後々、あのときは連絡ができなかったと言ってくれた人もいました。
特に、家族ってそういう時に暗くできないじゃないですか。自分の夫が呼ばれなかった、息子が呼ばれなかったというのは相当辛いと思います。辛くないように接してくれてたんですけど、やっぱり伝わるんですよ。
そのことだけは本当に……苦しかったですね。申し訳ないなって思って。そのときはもうどうしようもなく、苦しい時間……。自分だけが苦しければいいんですよ。自分の問題なんで。たとえば、テストを受けて、受けたことを誰も知らなくて、落ちたとしたら、テストを受けてることをみんなに言わなければ周囲にはわからないから苦しむのは自分だけじゃないですか。でもワールドカップのメンバー入りするかしないかっていうのはそういうのとは違うんですよね。
妻は普通に接してくれてて、「しょうがないね」みたいな感じだったけど、親とか、苦しかったですよね。見てるのが。
ワールドカップメンバー発表って、ヨーロッパがちょうどオフに入るときだったんですよ。だからとりあえずオフに入って日本でゆっくりしようと。そうやって気持ちを切り替えられるタイミングだったのはよかったんですけど。そのあとリーグ戦があったりしたら、切り替えは難しかったと思います。
でも、実際にゆっくりしようと思って日本に帰ってきたら予備登録メンバーに入ってて、23人のメンバーにケガ人が出たら呼ばれるかもしれないって状況だとわかったんです。しかもあのときの日本代表ってケガ人が何人もいましたからね。もしかしたら急きょブラジルに飛ばなくてはいけなくなるかもしれない。
オフだと思ってたところから急に緊張感が増していって。ただ準備しようにも、オフに入ってしまっているし、トレーニングする場所がないんですよ。それに切り替えようとして過ごしているときに、自分の置かれている状況がわかって、一度気持ちが切れたところから急きょトレーニングを入れて。
チームに呼ばれたら、翌日荷物を持って飛行機を取ってすぐブラジルだという感じだったんです。だからオフなんだけど、オフじゃない感じなので、家族旅行にも行けないし、他の予定も入れられない。だって明後日、ブラジルに行かなきゃいけないかもしれないですから。
で、気持ちを切らさないように、試合の24時間前までそうやって準備して、結局ブラジルには呼ばれなかったんで、そこからまたオフになるんですけど。やっぱりサッカー選手はオフはちゃんと休まないと、体も気持ちもリフレッシュできないんですよね。あの年はスイッチの切り替えが難しくて、切れた気持ちを無理やり切り替えてトレーニングを入れて、そしてまたスイッチを切って、すごく難しいオフでした。
もちろんバックアップメンバーに入ったのは、日本代表に呼ばれるかもしれないということなので喜ばしい状況だったんです。でも、そこに家族を巻き込みながら、いろいろうまくいかないことばっかりで、それを乗り越えて何とか今があるという感じですかね。今は「思い出話」として話すことができるけど、あのときは相当辛かったのは覚えてますね。
他の業界の人と一緒に食事をすると、面白い
日本に戻ってきてからは、若い選手をご飯に連れて行ったりするんですよ。自分も若い時によく先輩に連れて行ってもらっていたし、そういう年齢になったということだと思います。だから、みんなを連れてよくおいしいものを食べに行きます。だいたいみんな行きたいところが決まってるんですけどね。東京のレストランにもご飯食べによく行きますよ。
僕はあまり新しいお店とかにチャレンジするタイプではなくて、お寿司屋さんだったらここかあそこ、焼き肉屋さんだったらここかあそこ、っていう感じで行く店がだいたい決まってるんですよ。若い選手とご飯に行くとやっぱり焼肉が多くなりますね。東京に行ったらお寿司屋さんに行ったりすることが多いです。
馴染みの店に行くのが多いですし、あとは人に紹介してもらった店だったり。ただ、最近は店の予約を僕がすることが多いんですよ。年齢が上になってきたから後輩からも「紹介して」って言われることがあって。あとは年齢が上の人から「好きなところ予約しておいて」と言われることもありますし。
何でも食べるんでいろんなところに行くんですけど、お気に入りは……難しいですけど、僕、結構六本木の「グランドハイアット東京」が好きで、あそこの江戸前寿司「六緑」がいいんですよ。お値段は張りますけど、おいしいと思います。
寿司のネタで好きなのは……まず、刺身を食べて、あとは自分から「これ」って言わないんです。お任せで出してもらって、嫌いな魚はないんで一通り食べて。その中でおいしかったネタをもう一回頼むという感じですかね。光り物よりやっぱりマグロとか中トロが好きです。あとはいくらやウニも好きだし。定期的にお寿司食べたら元気が出るというか。
東京で食べるときはサッカー業界じゃない友だちや知り合いと一緒に食べることもありますね。他の業界の人と一緒に食事をすると、やっぱりいろんなことが違っているから面白いですよ。もちろん他のサッカーの選手の人からもいろいろ吸収できますけど、みんな同じような生活してるんで。
だからアーティストとかミュージシャンとか会社経営者さんとか、アメリカに住んでる先輩とか。全然仕事が違うから話をしてて面白いですね。こんな世界があるんだって。やっぱりサッカーしかやって来てないから。違う業界の話を聞くのはすごくためになりますね。
食べるものとかレストランって重要だと思いますね。やっぱりおいしいものを食べたいと思いますし、そこをケチりたくないと思います。だからやっぱり、もっと新しいところ、いろんなところで食べてみようかなと思ってます。自分で予約して。あ、「ぐるなび」さんからいい情報下さいよ(笑)。
細貝萌 プロフィール
前橋育英高校から2005年、浦和レッズへ入団。2010年にはドイツのレバークーゼンと契約。直後にFCアウクスブルクへとレンタル移籍。2017年まで海外で活躍。2017年以降は柏レイソルに在籍し、2018年12月からタイのブリーラム・ユナイテッドに完全移籍した。日本代表としては北京五輪や2011年アジア杯に出場している。
1986年生まれ、群馬県出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。