3月下旬、編集者男と編集者女と3人で、お花見でもして、そのことを書こうかという話になった。
でもせっかくなので、お花見を最終地点にするのではなく、どこかを散歩して、その途中で桜も見よう。
どういう話の流れだったか、編集者女が子供の頃を過ごした登戸にいくことになった。
南武線の宿河原から、登戸まで1駅歩く途中に、二ヶ領用水というのがあって、その川に沿ってずっと多摩川まで桜並木があるという。
水面まで降りられる二ヶ領用水に生い茂る桜並木。春の香りに陶然
当日駅で待ち合わせ、編集者女の案内で現地に向かうと、あれ、ここ来たことがあるぞ、と思った。
そうだ「ニッポン線路つたい歩き」(KANZENより単行本化)の連載で、南武線につたい歩きした時に、通った。しばらくこの川に沿って歩き、線路の際に戻った。
あの時は登戸駅から武蔵小杉を経由して平間駅まで歩いた。暑い暑い日だった。
ここの用水は、水面近くまで降りることができる遊歩道が度々あり、そこへ降りて歩くと少し涼しかったのだった。
あの時は、葉の生い茂る並木を桜とは思わなかった。ただその木陰に暑さをしのいでいた。
今日は、その葉はまだほどんどなく、花だけが七分咲きだ。いいじゃないか。
平日のせいか、お花見をしている人は誰もいない。ボクら3人のためのこの桜の道。贅沢だ。
雲が多いが、青空も見える。気温は寒くもなく暑くもなし。
きれいだ。やはり桜はいい。小さな花の満開が空を埋めるほどたくさん咲いている。考えてみると不思議な光景だ。
ソメイヨシノは木に花が直接一斉に咲いて、それが数日で散って、それから新緑が芽吹く。
そもそも、こんなに咲く必要があるのだろうか?
ソメイヨシノは全て、一本の樹から生まれたクローンらしい。
全てのソメイヨシノは人の手によって接ぎ木などで増やされたものだ。
ソメイヨシノを両親とする種は発芽しないそうだ。
では何のために花は咲くのだろう? 誰のためにソメイヨシノの花は咲く。
それもこんなにもたくさん。メジロやヒヨドリは忙しく蜜を吸うが、彼らにとっても多すぎる。
江戸から明治初期に、江戸の染井村で作られたそうだが、それが今や全国の桜の代表みたいになっている。でもクローンだ。
これは考えるとちょっとコワイ気もする。
まあ、今は深く考えるのはよそう。きれいだから、いいじゃないか。とりあえず。
気持ちの悪い汚い花がたくさん咲くより。
そういう未来が来ないようにしたい。
二ヶ領用水のこの辺りは、柵らしい柵もなく、水面近くに作られたウッドデッキの道も柵なしで、何とも無防備だ。落ちてくださいと言わんばかりだ。水はきれいだし浅いから、落ちても命に関わりそうではないが、何かと安全第一、何か起こった時の責任回避のうるさい今日び、都心部では珍しい。
案の定、子供がいかにも足を踏み外しそうな岩の部分にかじりついて遊んでいた。
でもボクはこういう方がいいな。
「危ないところは自分で注意する」という厳しさが甘くなりすぎている日本だ。
ボクも子どもの頃、近所のドブ川で、臭い水辺まで下りたりしたな。そしてお約束で、足を滑らせて、川にずぼんとはまった。臭かった。今よりずっと汚かった。でもおかげで川岸で注意深くなった。
高度経済成長の昭和40年代だ。東京湾が一番汚かった頃だ。田子の浦のヘドロが問題になった。
ヘドラって怪獣まで登場して、ゴジラと戦った。変な怪獣映画だった。今の中国の大気汚染のことなんか言えないほど酷かったはずだ。
編集者女はこの辺りの住宅街に住んでいたらしい。この桜の下を、自転車で塾に通ったりしたそうだ。青春だ。
校了明けに朝から飲める寿司屋を発見して、女一人で嬉しそうに日本酒を飲んで酔っ払っている大人になるとは、思ってもいなかっただろう。
前に歩いた部分じゃない川沿いになっても、まだまだ桜は続いている。
そのまま用水路につたい歩き、南武線をくぐって、もう少し歩くと多摩川に出た。
空がどーんと開ける。灰色の雲がさっきより広がっているけど、青空も見え、その青空が多摩川の水面に映っているのが美しい。
川の向こうが東京か。
多摩川沿いを歩く。鉄橋を走る小田急線を見ながらロゼワインを
河原に降りてみることにする。
鉄橋が近づく。あれは小田急線か。
列車がやって来た。多摩川を渡ってすぐのところが登戸駅なので、列車は鉄橋の上でスピードを落としていく。
「なんか、いいですねぇ」
とその光景を見て編集者男が笑って言った。確かにいい。重い灰色の雲の下に春の水色っぽい青空がのぞいていて、ちょうどその青空を背景に、列車は走ってくる。
鉄橋の下には何人もの釣り人が見えた。
3人はさらに川に近づき、川べりまで来た。
「この辺にちょっと座りますか」
と編集者男が言い、3人は大きな石にそれぞれ腰を下ろした。
するとすぐさま編集者女が、ロゼワインのボトルと、ポリコップを出した。
いつの間に用意したのか。こういうところだけは抜かりがない。
でもボクはワインの銘柄を何にも知らないし、ロゼの味の特徴もわからないのだが。
きれいなバラ色で透明な液体を、そっけないコップに注いで、飲む。おいしい。
花見と時間差の酒だ。
ただ電車が鉄橋を渡る光景が、何でこんなに「いいなぁ」と感じるんだろう。
橋も途中そのものだ。橋渡し、という言葉もある。
頭上には鼠色の雲が厚くなって来たが、頭上が暗いせいか、多摩川の水面はますます鏡のように美しく青空を写した。こんな多摩川見るのは初めてかもしれない。
釣り人のシルエットが黒々して、影絵のようだ。
しかし、編集者2人は、酒は用意したが、肴は用意していなかった。
肴というか、食べ物は用意していなかった。
フランスパンでもあれば、それをもってお花見の「途中めし」とできたのに。惜しい。
この後、編集者女の知っている焼き鳥屋に行くことになっているとは言え、そこは気が利いていなかった。酒を飲むことばっかりに頭がいっている。連載の主旨を忘れていまいか。
焼き鳥屋はゴールであり、途中ではない。残念だ。
フランスパンをちょっと焼いたのに、ニンニクを塗り付けて、トマトとか生ハムとかハーブにオリーブオイルと塩をしたのをのっけて食べるの、なんて言ったっけ。ブルスケッタか。
あんなのがあると、お花見らしい気がする。ものすごく無い物ねだり。じゃあ自分で作って来い。
ポリコップに、ワインをどぼどぼと注いで、みんなすいすい飲んだので、1本のワインがなく
なるのは、あっという間だった。桜も歩き見だったし、ロゼワインもちゃんと味わってたか、怪しい。
焼き鳥屋が開くまでの間をもたせるはずが、全然もたない。何をやっているのだ。
とはいえ、川面はきれいで、電車と鉄橋もドラマチックで、楽しいひと時だった。
しかたがないので、ゆるゆると立ち上がり、だらだらと河原を歩いて、ゆっくり登戸駅の方に向かう。
これがまたすぐなのだった。
編集者女が実家にいる頃行ったという焼肉屋の前に着く。
この店「平安郷」の店構えがすごかった。
登戸駅前に到着。すごいゾ。このお店。焼き鳥屋と焼肉屋のハーフ&ハーフか!?
店名より何より大きく「焼肉」というネオン看板。デカイ。すごいインパクトだ。向かって右半分が焼肉屋で、左半分が焼き鳥屋になっている。両方で平安郷らしい。
焼肉部分と焼き鳥部分の真ん中に、ビニールが壁になっている屋台のような部分が飛び出している。あれはなんだ。
こんな店に、中学生の娘を、編集者女の御両親は連れて行ってたのか。
開店と同時に店に入る。
奥に細長く、左手は4人がけのテーブルが1列に並び、右手は立ち飲みのカウンターになっていた。
一番奥のテーブル席に着いて、サッポロの赤星大瓶を2本頼む。
赤星があると嬉しい。一番おいしそうに見える日本のビールラベルだと思う。
どんどんお客さんは入って来た。人気店じゃないか。
編集者女は、こちらには来たのは初めてだそうだ。焼き鳥部と焼肉部は中で繋がっているようだ。
編集者女が両親と焼肉屋に来たという話を聞いていて、父と初めて焼肉を食べた時のことを思い出した。
ボクが小学5年生くらいのときだ。
母が小さな弟を連れて、山梨の郷里に1泊したので、ボクは夕飯を父と食べることになった。
父は料理ときたら野菜炒めも卵焼きもできない人だったので、外食しなければならず、地元の駅前で待ち合わせて、2人で焼肉屋に行った。
ボクは焼肉屋に行くのは初めてだった。果物屋の2階にあった焼肉屋だ。
入ったら、そんなに混んでいなかったが、ボクらは店の隅っこのテーブルに案内された。
鉄板の焼き網を前にするのも初めて、紙のエプロンをするのも初めてだった。
父は飲まないから、いきなり焼肉とご飯を頼んだ。
父と行った焼肉屋の記憶が甦る。薄暗い卓で黙って肉を焼いてくれた。
父が熱くなった鉄板に肉を置いていった。
そして、肉のようすを見て、箸でそれらを裏返していった。
ところが、そのうち父は首を傾げ、肉にメガネの目を近づけている。それから別のテーブルも見た。不思議に思って、ボクも見た。
そしたら、ボクらのテーブルの上だけが、やけに暗かった。
他のテーブルの鉄板の上はスポットを浴びたように明るく、ジュウジュウいう肉が輝いて見えた。その輝きが、それを囲む人々の笑顔までも輝かせているようだった。
ボクらのテーブルの上だけ、薄暗く、暗い鉄板の上に肉が置かれていた。
だから、たしかにジュージュー音はするのだけど、肉が焼けているかどうか、よくわからないのだった。
父は目を凝らして何度も何度も肉を裏返した。こういうところは神経質なのだ。子供に生肉を食べさせてはいけないと思ったのかもしれない。
そして「よし」と言って、ボクの小皿に焼肉をのせた。
ボクは父に言われるままに、肉をタレにつけて、ふうふうしてほおばった。
それはかなり焦げている味がした。でもボクは何も言わなかった。
テーブルが暗いねとも言わなかった。父もそのことは言わなかった。
父は席を変えてくれと、店員に言うこともなかった。そういうのが苦手な、おとなしい大人なのであることを、ボクももうわかっていた。
父とボクは黙って暗いテーブルで肉を焼いて、ご飯を食べた。
そのあとの記憶があまりない。
でも、そのことを思い出すたび、その時のお父さんを思って、小学生のボクは胸がきゅんと締め付けられる気持ちになるのだった。
そのために、ボクは父への反抗期が無かったんじゃないかと思うくらいだ。
その数年後、ボクは中学生になっていて、弟も小学校高学年になっていた。
また母が用事で山梨に行っていて、今度は弟も加えて3人で外食することになった。
何が食べたいか聞かれ、ボクは即座に「焼肉」と答えた。
あの暗いテーブルのことを、思い切り肉を食べて拭い去りたかったのかもしれない。
同じ焼肉屋に行った。
ボクは店員に案内されながら、暗いテーブルにならないよう、目を凝らした。父もきっとそうだったと思う。
普通の明るいテーブルに着いた。
ところが、たぶん父には予想外のことが起きた。
ボクも弟も食べ盛りの年齢に達していた。実際、ボクの身長は小柄な父をとっくに超えていた。
ボクと弟はカルビの焼肉を何皿も何皿もお代わりした。ご飯もお代わりした。
ボクはあの時の「復讐」だと思って食べていたのかもしれない。弟は珍しくて楽しかったのだろう。
そのうち、父は「そのくらいにしなさい」と笑った。
しかし、それが財布の中が心配になってきたというサインだったとは、ボクにはわからなかった。こういうところは、昔も今も鈍感なボクだ。父は肉を食べるのをやめて、キムチでチビチビとご飯を食べていた。
「あはは、そんなに食べたら、お腹が破裂するぞ」
と笑って言ったが、その冗談は火に油をそそぐようなものだった。もっと食べて驚かせてやろう、とさえ思った。父の心の中は真っ青だったと思われる。
会計の時、父が黒い財布を握りしめて、すごく心配そうにレジの人の手元を見ている時、やっとボクは理解した。
大変だ。食べ過ぎた。お金が足りなかったら、父はどうなってしまうのだろう。ドキドキした。弟はそこまでわかっていないようだった。どうしよう、でももはや取り返しがつかない。調子に乗って食べ過ぎてごめんなさい。
結局、ギリギリでお金は足りたようだ。当時はカードなんて無かった。
この時の冷や汗話は、その後父が母に笑い話としてよく話すようになった。
だから暗い鉄板の記憶のように、いつまでもチクチクする胸の傷にはならなかった。
ふと我に帰ると焼き鳥屋で微笑んでた。いつの間にかボクは歳をとっているんだナ
焼き鳥屋は、気がついたら立ち食いカウンターまでぎっしりだった。
1人で来ているおじさんも多かった。多くの人がホッピーを飲んでいた。
常連さんらしいおじいさんは、店員に、
「どうしたの?病院、行ってたんでしょ?」
と言われ、
「うん。その帰り」
と笑って答えていた。大丈夫だろうか。店員さんはみんな元気で感じがいい。
サラリーマンぽい男は、小指で丹念にハナクソをほじりながら、酎ハイを飲んでいた。
店内にはポール・マッカートニーの「ジェット」が流れていた。ボクの高校の時のヒット曲だ。
焼き鳥盛り合わせを食べた。自家製厚揚げも食べた。250円の味噌きゅうりもかじった。みんなおいしくて、安い。
お客さんの回転が早い。気がつくと立ち飲み席のメンバーもみんな替わっている。それもこの店の居心地いい空気をつくっている要素だ。
常連の長っちりばかりだと、店の空気も淀む。
ボクらもホッピーにかえて、ままかり酢漬けも食べた。
注文や計算を席のタッチパネルで客にさせるような店は、絶対ヤダという話をした。
最後にナポリタンを頼んで、つまみに飲んだけど、これがなかなかよかった。
編集者男の父親が大酒飲みだった話を聞いたりした。
下戸の父は、こういう楽しみをいっさい知らずに歳をとったんだな、と思う。
紹介したお店

- ジャンル:焼肉
- 住所: 〒214-0014 神奈川県川崎市多摩区登戸3402
- エリア: 登戸・向ヶ丘遊園
- このお店を含むブログを見る | 登戸・向ヶ丘遊園の焼肉をぐるなびで見る
TEL:044-922-5554
営業時間:平日16:30~22:30
土日祝14:00~22:30(L.O21:45)
日曜営業
定休日:木曜日
※掲載された情報は、取材時点のものであり、変更されている可能性があります。
著者プロフィール
文・写真・イラスト:久住昌之
漫画家・音楽家。
1958年東京都三鷹市出身。'81年、泉晴紀とのコンビ「泉昌之」として漫画誌『ガロ』デビュー。以後、旺盛な漫画執筆・原作、デザイナー、ミュージシャンとしての活動を続ける。主な作品に「かっこいいスキヤキ」(泉昌之名義)、「タキモトの世界」、「孤独のグルメ」(原作/画・谷口ジロー)「花のズボラ飯」他、著書多数。最新刊は『ニッポン線路つたい歩き』。