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日本代表だったプライドと傲り……城彰二の人生が変わった瞬間

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「エースのジョー」は華々しくデビューした。

高卒ルーキーで開幕先発。そこでゴールを決めると

4試合連続でネットを揺らし続ける。

18歳でさっそうと日本サッカー界のスターに名を連ねた。

 

1996年アトランタ五輪のメンバーとしても活躍。

そして1997年、ジョホールバルの戦いでは63分に途中出場し

75分に貴重な同点ゴールをヘディングで叩き込む。

 

そして迎えた1998年フランスワールドカップで、

岡田剛監督は城彰二を「エース」に据えた。

だが、ノーゴール。チームも1勝もできないままフランスを後にした。

 

そこから城の苦闘が始まる。

1999年、スペインのバジャドリードに入団。

だが1年で日本に帰国することになる。

年間のゴール数もガクンと減った。

 

移籍、契約満了、J2行き。

まだそのとき城は27歳だった。

20歳前に浴びたスポットライトは

まだ輝けるはずの選手から遠く離れていった。

 

人から見れば2部リーグに行くことは

キャリアの終わりに近づく苦しいことに見えただろう。

だが城はそこで転機を迎える。

その後の城の人間性はそこで形成された。

 

今の城は「楽」に生きている。

決して明るかったばかりではない城のサッカー人生だが

そこでつかんだものが城の道を明るく照らしている。

 

初めての0円提示……行き先がない不安

僕はね、行き先がなくなったことがあるんですよ。そのときが一番辛かったですね

 

2002年日韓ワールドカップの年にヴィッセルに1年間在籍したんですけど、その契約が終わって、そこから横浜FCに行くまでが、自分のサッカー人生の中で一番辛かったと思いますね。プレーをする場所がない。本当にもうサッカーを止めなければいけないかもしれないくらいまで追い込まれた時期でした。どうすることもできず、何をしたらいいかもわからない。もう他の仕事を見つけなきゃいけないなっていうところまで考えた時期でした。

 

みんな、2000年にバジャドリードぐらいからマリノスに戻ってきたときが大変に見えたと言いますね。もめたようにみえただろうし。でも、僕のサッカー人生は1994年にジェフに入ったところから順風満帆に来たと思うんです。

 

1999年にスペインに行って、いろいろわからないことがありました。それは大変だったし、結局契約やいろんな問題があった。ただ自分のプロ生活13年間を振り返ると、2002年、2003年がとてつもなく辛かったですね。

 

確かにバジャドリードから戻ってきたときは、もちろん辛かったですよ。チーム同士が交渉して、結局決裂してしまったので。バジャドリードとしてはそのまま延長したいという話があったんですよ。マリノスからももうちょっとでまとまるだろうという話もあったし。

 

僕もバジャドリードに残ると思っていたので、荷物をすべて置いて帰国したんです。マンションもそのまま。バジャドリードからは「1カ月間、バカンスで日本に行ってこい。それで休憩して戻ってこい」と言われてました。

 

それを信じて日本でスペイン向きのトレーニングをしてました。ところが1週間経ち、2週間を過ぎても連絡が来ない。ちょっと不思議に思いましたけど、4週間が過ぎたとき、さすがに本当に大丈夫かって感じになった。それで4週間過ぎたときに「結局ダメになりました」ってマリノスから言われたんです。「え?何だよ?」って。心も物もすべてスペインに置いてきたんで。

 

何がどうなったのかわからなかったですね。移籍っていろんな人が絡んでいる問題なので、本当は簡単にいくはずない。でも当時の僕はそれがわからずに、きっとあっさりまとまるんだろうと思ってたので。今考えるとこれくらいもめて当然って思えるようになりました。経験にはなったんだと思います。でも、そのときは失望が大きかった。心にぽっかり穴が空いたような気がしてました。

 

心の問題以上に困ったのは、日本での1カ月間で僕は肉体改造を行っていたことでした。スペインのサッカーに適応するため、俊敏性を犠牲にしてでも、もっと肉付けをして、当たり負けしないようにしていたんです。体をスペイン仕様にしてたというか。それが日本でプレーすることになると、日本のスピードのあるリーグでは体の使い方がまったく違う。そこから歯車は狂ったと思います。

 

日本でプレーするとなると、また体を変えなければいけなかった。スペイン向けに体重を5キロぐらい増やしていたのに、また1カ月以上かけて絞らなければいけなかったんです。けれど、なかなか戻るわけもない。そういった部分がゴール数に表れてしまい、難しい状況でした。

 

それでマリノスで2年過ごして、クラブはもう1年延長したいという話をしてくれたんですけど、自分が環境を変えたいと思ってたんです。そうしたらヴィッセルが手を挙げてくれた。そのとき川勝良一監督で、カズ(三浦知良)さんがいて、岡野雅行君、播戸竜二とか、超攻撃的にFWが揃ってた。そこで何とかやってやろうという思いがありました。

 

けれど、なかなかうまくいかなかった。なんででしょうね……。やっぱりどこかにスペインへの思いがあったんでしょうね。年齢的にもどんどん上がってきてましたしね。そのあたりも合わさって、結果が残せなくなってきたときでした。

 

ヴィッセルは結果が出なくて、川勝監督も途中で解任されて、松田浩コーチが昇格して指揮を執るようになりました。するとどんどん出られなくなった。

 

僕はヴィッセルとは1年契約でした。ヴィッセルに来る前は結果が残せず、リーグでも2点しか取ってなかったので、複数年はダメだったんだと思います。それで神戸で、初めて「0円提示」を受けました。11月の末に翌年の年俸が提示されるんですよ。そこに「0円」と書いてある。事実上の解雇ですね。僕にとって初めての経験でした。

 

 

引退危機を救ったのは「ジェフ人脈」だった

初めて「0円提示」を受けたけど、僕は安易に考えてたんです。きっとどこかが手を挙げるだろうって。今までの実績もあるし、自分はまだまだできると思ってたから。ところが1つも挙がらなかった。唯一上がったのは中国のチーム。海外からオファーはあっただけで国内からは何もなかったんです。

 

年末が来ても、1月になっても電話が鳴らない。もうこのままオレは引退しなければいけないかもねって。27歳ですよ。サッカー選手としては一番いい年齢です。

 

契約は1月31日までで、登録もその日まで。1月20日過ぎて「もうこれは国内はダメだな」と思ったけど、まだサッカーはやりたいから、その中国のチームに行こうか、と。それで中国のチームと話を何回かしました。

 

そうしたら1月29日でした。当時、横浜FCの社長だった奥寺康彦さんから連絡があったんです。「お前、どうした?」って。「情報出てこないし、新聞にも載らないけど、お前行くとこ、決まってるのか?」って。「いやぁ、実は決まってなくて。オファーありません。中国のチームしかないから、そこでやるしかないと思っます」と話をしたら、奥寺さんが「一度話をしよう」と言ってくださった。

 

それで横浜に行ったのが1月30日です。ホテルで会ったら、そこに奥寺さんと、ピエール・リトバルスキー監督と阪倉裕二コーチがいらっしゃった。みんな昔のジェフ人脈ですよ。「行くとこは本当にないのか?」「ありません」という話から始まって、横浜FCで1994年に ジェフで一緒だったメンバーが、もう一度戦ってるんだという話をされて。リトバルスキー監督から「お前をもう一回再生させる」と熱く語ってもらって。「このままだったら、落ちていくだけ。だから本気でやるんだったら、オレが絶対再生させる」って。

 

そのとき、お金の云々という話じゃなくて、こんなに熱い気持ちを持ってやってくれる人たちがいるなら、もう自分は中国じゃなくて、ここに行こうと。J2でも、ほとんど最下位のクラブでも、そんなの関係ない。1994年のころからずっと一緒にいたメンバーとともに何かやっていけるといううれしさがあった。

 

「ちょっと1日考えさせてください」とお願いして、考え上で結論を出して、それで「やらせてください。オレ、もう一回リセットして、もう一回上に行く。だから行きます」って。それで1月31日のギリギリに契約したんです。その次の日にキャンプが始まったので、発表と同時に飛行機に乗って、愛媛県新居浜のキャンプ場に行って。他の選手たちとは飛行機の中で初めて会いました。みんな、僕が来たのに「マジか」と驚いていたみたいです。でも僕にとってみると、行くところがなかったんで、拾ってもらったという感じですね。

 

あの2カ月は本当にきつかったですね。熾烈でした。マズいなってずっと思ってました。

 

 

横浜FCで迎えた人生の転機

当時のJ2はJ1とレベルが全然違うと思われていました。でも僕は行くところがなかったから行かざるを得なかった。逆に、あのまま中国に行っちゃったら、たぶんなかなか日本でもう一度プレーするのは難しかったでしょうね。

 

ただ、正直に言うと年俸はすごく安かったし、練習場もない。公園みたいなところで練習もしました。でも、「オレはここで何とかしなきゃいけない」という気持ちがありましたし、拾ってもらったという感謝もあった。自分もチームも強くしないと。そういう頭でした。

 

それでも横浜FCでは最初、サッカー的な部分でストレスがありました。あったと言うか……2003年、2004年までは自分でも傲りがあったんでしょうね。「感謝」とか言いながらも、結局オレはJ1の選手だからとか、オレは元日本代表だからとか、そういう気持ちを持ってて。それでたぶん、パスが出てこないとか、周りのせいにすごくしてた時期があったんです。自分も年齢的に落ちてきている、体力的にもパフォーマンス的にも落ちてきているのがわかってたんだけど、それを周りのせいに出来る環境というか。

 

そういう傲りがあったから、たぶん不満なんかをいろいろ発してた。チームのためと言いながらも本当は自分のことしか考えてなかった。自分は結果を残して自分だけJ1に行こうと。そしてオファーが来るだろうと思ってました。

 

1年目の2003年、12ゴール取ったのできっとJ1から誘ってくれるだろうと思ってたんです。ところが現実は甘くない。オファーは1つもありませんでした。だからもう居続けるしかない。それで横浜FCの2年目、もう8点しか取れない。

 

それぐらいから、周りのせいじゃないって気付きました。自分の置かれている立場と現状が見えた。それまで変なプライドがあったんです。代表選手だったとか、輝かしい成績を残したとか。そういう過去に頼っていることがあった。でもそうじゃない。これは違う。自分は今、J2の下に沈んでいるチームの一員としてやっているのだから、過去のプライドは捨てて、自分に何か出来るかちゃんとやってみようと。

 

だから自分からゴールを運んだりとか、ボールを片付けたりするようにしました。正直、そういうこと、それまでやったことなかったんです。でも違うと思って。もっとみんなに信じてもらわなきゃいけないし、もっとみんなと一緒にやらなきゃいけない。

 

そう考えを変えた2005年、ちょうどキャプテンをやらせてもらいました。だからより率先していろいろやるようになったし、グラウンドにも早く行くようになった。みんなとコミュニケーションとって、一緒に食事に行くようにして。そこからですよ。自分の人生が変わったのは。

 

本当に、いらないプライドというか、そういうものを持っていた自分がいた。それがすごく邪魔したんだと思います。それがなくなってから楽でしたもん。話すにしても自分の本当の思いを伝えられた。それまでは何か自分は違うんだというプライドがあったんで、本音を話せなかったし、弱音も吐けなかった。

 

気持ちなんでしょうね。気持ちが変わったら全然変わった。僕がそういう態度を取ったら周りが驚いたし、僕がやるんだったら自分も、と思ってくれて、そういうのがチームのいい関係を作ったんじゃないかと思いますね。

 

1998年、フランスワールドカップから帰ってきて空港で水をかけられました。でも、あれは仕方がないと思ってました。自分のプロ意識として、結果が残らなければそういうことが起きると思ってた。でも受け入れながらも、変なプライドはどこかにあったんでしょうね。横浜FC時代は本当に傲っていた。その間はうまく行かなかったし。そこで気持ちが変わって、チームのために、自分のことよりチームのためにやりたいと思いになった。それが僕の転機です。

 

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悔しい思いで見つめた2002年の日韓W杯

1998年、フランスワールドカップに出場したけど、グループリーグで敗退してしまった。だから2002年、もう一回あの舞台に立ちたいという思いはありました。そこで見返したいという気持ちがあったんです。期待されて行ったけれど、ちょっと甘かったと感じてましたから。ずっと絶対的エースストライカー、三浦知良という選手がいて、僕はサブでしたからね。そこに一気に転換期が来ましたから。

 

本大会で結果を残せなかったことに関しては自分が一番悔しかった。ただやっぱりそれだけの気持ちがなかったというか、そのことを受け入れられるだけの余裕もなかった。まだあのとき22歳でしたからね。もったいなかったと思います。

 

2002年日韓ワールドカップでは、自分ももっとしっかりして、もう一度その舞台に立って、真のエースとして戦いという気持ちがありました。だからスペインにも行きましたしね。世界と戦うために海外に行きたいと思ったんです。でも移籍をしていろんなことが起きて、それがあだとなったというか、逆効果を生んでしまった。国内でやってれば逆に良かったかもしれないけど、それも人生ですから。

 

だから2002年は悔しい思いをして観てました。「やっぱりここに出たかったなぁ」と思いながら。ただ、これが現実だと切り替える自分もいた。それだけ自分の状態が悪かったというのも自分でわかってたんでしょうね。体もそうでしたし、心もスペインに置いてきちゃったりとか。精神的にやっぱり難しかったというのは正直あったんでしょう。だから諦めもついたんですよ、たぶん。諦めつかなかったら本当にもう路頭に迷ってた。でも、そこまで思えなかったから。悔しいという思いもあったけど、がんばってほしいという思いも日本代表にはあったんで。

 

2001年まではフィリップ・トルシエ監督から日本代表に呼ばれたんですよ。ただ、今だから言えるけど、トルシエ監督に文句を言いに行ったことがあるんです。部屋まで。なんか、Jリーグとか日本人を見下しているように見えたので、だけど、のちに監督と話をして、2人の思い出話になりましたよ。スペインに行ったときかな。トルシエ監督があのときはパフォーマンスだったんだって教えてくれました。

 

 

Jデビュー戦は試合当日に先発を告げられた

高卒で初年度12点という記録はまだ破られてないと思います。今は選手が大学卒業にシフトしているという感じもあって、高卒でなかなか出場のチャンスがないでしょうから。昔は試合に出してもらいやすかったかな。

 

だけど、僕にしてもすっと出られたんじゃないんですよ。1994年の開幕戦で最初に試合に出たときは、前々日までサブチームだったんです。前日にレギュラーの選手がケガをして、試合当日に先発って言われたんですよ。そんなサプライズもありましたからね。

 

その試合から4試合連続でゴールが取れた。「何だ、高校生」と思われながらプロの選手たちに揉まれながらやって、それなりにポンポンと最初は点を取りました。勢いはあったから。高校生はフレッシュだし、何も知らないし、とにかくやればいいんだと思ってたし。

 

でもまぁ周りに恵まれていたんですよ。Jリーグが始まった当初はいろんな外国人選手がいたから。ジェフにはリトバルスキーもいたし、フランク・オルデネビッツもいた。本当に日本のサッカーが伸びる時期で、そこに自分が入れたというのは大きかったですよ。練習しているだけでも自分がうまくなっていくのがわかった。それくらいレベルが高くて、そこで成長させてもらったと思います。

 

 

飲食店に詳しく周囲に頼られることも

スペインは日本に味付けが似てたし、タコも食べる国なので、食事は全然問題なかったですね。僕はアジアでもどこでも大丈夫なんです。香辛料もいけます。だから食事に困ったことがない。それに現役時代から食べることは好きでした。

 

日本で食べる外国料理だとイタリア料理が好きですね。広尾の「アッピア」はピカイチおいしいです。フルオーダーできるんですよ。前菜からワゴンがやって来て、そこに並んでいる食材を選ぶところから。キノコをソテーにして、とオーダーして、メインもたくさん来るので、お肉の塊を見ながら自分でどう調理するのか決められます。お勧めを聞きながら、何グラム頂戴とか。パスタも手打ちでいろんな種類があるので、どの麺をたとえばトマトでこうやって味付けてほしいとか、そういう注文が出来る。デザートまでそうですから、たまらないですね。

 

現役時代で一番おいしいと思ったのは、肉でしたね。よく行ってたのは白金にある「金竜山」という焼き肉屋さんです。一見さんお断りなんですけどね。焼き鳥なら府中にある「初代バッジョ」。駅のすぐ近くなんですけど、そこのレバーはヤバイです。価格も安いし。

 

他にもメジャーなところから庶民的なところまで。和食も行きましたし、お寿司イタリアンも。なんでも大丈夫です。18歳のときから今も通ってる、麻布十番の「登龍」という中華料理屋さんなんですけど、その担々麺と餃子がたまらなくおいしくて。今も大好きです。

 

昔はおいしい店を紹介するのは本しかなかったので、たくさん読んで、片っ端から行ってました。それをみんな知ってるので、今でも友達や他の選手から連絡が来るんです。「今、六本木にいるんだけど、オススメの店を教えてくれ。こういうの食べたい」って。それって人間「ぐるなび」みたいな扱いですね(笑)。

 

城彰二がオススメするお店

r.gnavi.co.jp

r.gnavi.co.jp

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城彰二 プロフィール

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1997年からは横浜マリノスへ移籍、2000年にはスペインのバジャドリードでプレー。2002年にヴィッセル神戸、2003年からは横浜FCでプレーし、2006年に引退。

日本代表としては1995年から2001年までプレーし、1998年フランスW杯に出場。


北海道出身、1975年生まれ。

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/


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