明朗闊達、豪放磊落、バンカラという言葉さえ似合いそうだ
そんな中山雅史は常に光の中を歩いてきたように見える
だがその明るさは乗り越えた困難に支えられていた
プロリーグ入りは遅れた
プロリーグに入るとすぐに離脱することになった
ワールドカップの翌年にはプレーできなくなった
1998年フランスワールドカップでは日本の唯一のゴールを挙げる
だが2002年日韓ワールドカップでは他の選手を鼓舞する役にまわる
そんな苦労話ですらユーモアを持って話すのが中山だ
Jリーガーになった年に原因不明のケガ
一番苦しんだのは、「ドーハの悲劇」の翌年、Jリーガーになった1994年なんですよ。所属したヤマハ発動機はJリーグ発足のときの10チーム「オリジナル10」に入れなくて、それでやっと1994年のリーグから加盟したんですけど、その年に、「恥骨結合炎」「鼠径(そけい)ヘルニア」「グロインペイン」になったんです。
これからやっとプロリーグで戦えるんだと思ったら、3月に開幕して5月のゴールデンウィーク空けにはもうリハビリに入りましたから。そこからもうまったく試合に関係できずに、練習にも合流できなくて。
当時は「恥骨結合炎」という言い方しかなくて、「グロインペイン」という名前はなかったですね。それくらいよくわかってなかったんです。原因もわからないので、何をすればいいのかわからなくて、僕も「どうすればいいのかな」って。
検査したらレントゲンで真っ白になってたんですよ。炎症を起こしてたんです。でも、整形外科のドクターからは、1、2カ月安静にして炎症を引かせて、3カ月目から体調を上げていけば、4カ月目で復帰できるんじゃないかって。
そういう目論見でやってたんですけど、5カ月経っても走れる状態じゃないというか、走っててもしっくりこないというか。これじゃフルには走れないなって、自信が持てないような状態だったんですよね。
それがいつまで続くのかなって。レントゲンとか撮っても原因になりそうなものは何も出てこないんです。「どうすりゃいいの?」って。注射とかいろんなものを試したんですけどダメで。このままサッカーを辞めなきゃいけないってことはないと思ってましたけど、いつ復帰できるんだろうっていう、終わりがないところが苦しくて。
そうしたら同じような症状の福田(正博)さんが治療でドイツに行って腰回りの手術をして、それでよくなったって聞いたんです。
けれども、自分は何の手術をすればいいんだって。悪い箇所が見つかったら、そこを縫合なりすれば痛みは消えるだろうけど、何にも映ってないのに何をどう手術するんだろうって思ってたんですよね。
でも、福田さんはドイツに行ったらよくなったんだから僕もドイツに行こうって。それで受けた手術は鼠径ヘルニアの手術だったんですよね。おへその下の鼠径部の筋肉が緩んでるか穴が開いてて、そこから腹腔物の腹膜が飛び出してると。それで飛び出してる腹膜を切って縫って、筋肉に穴が開いちゃってるところを縫って強くしたんです。
ドイツなんかではすごくポピュラーな手術だったらしいんですよ。もう10万人以上手術をしてるって。しかも向こうでは鼠径ヘルニアの選手がいたら、早くて10日から2週間で復帰してるって。
えー、そんなに簡単に治るの? ってびっくりですよ。日本もプロになったからそういう疾患が出ていたのかと思ったんですけど、もしかしたらそれまではアマチュアスポーツだったんで、痛みが引かないからって引退した人もいたかもしれないんですよ。
原因もわからないし処置もわからない中で苦しんだんでしょうね。でもドイツは歴史がありますから、そういう症状の人が何人もいて、それだったらこうだっていうアプローチをしてくれて、それで復帰することができたんです。
ただ、ドイツで手術をした後の治療で、肛門の中が凝(こ)ってるとも言われたんですよ。肛門の中の筋肉で、外から触れない部分が凝ってるから、そこから腰なんかに影響が出てるんじゃないかって言われて。それで肛門に指入れられて、中の筋肉をほぐすって言ってグリグリやられました。それは痛かったですね。それから背中に30数カ所注射を打ったりね。
それで鼠径ヘルニアと言われましたけど、それが今でいうグロインペインも併発していたのかもしれないんです。グロインペインは筋肉のバランスが崩れて痛みが出るんです。
2003年、また鼠径部が痛くなったんですけど、そのときは自分でもグロインペインだって思いましたね。ジーコジャパンのときだったんです。あのときはコンフェデレーションズカップでフランスに行く前の試合で、アルゼンチンとやったときに肉離れになって。それで遠征メンバーから外れたんですよ。
それからしばらくして、その肉離れが癒えてきたんでランニング系とかスクワット系のリハビリを始めたら、もう次の朝、痛くて歩けなくなってんです。車椅子に乗って病院に行ったんですけど、レントゲンやMRIなんかで検査をしても何もないんです。
何が痛いのかがわからないんです。どういうアプローチしたらいいかもわからなくて。ただ夕方までは痛かったけど、次の日になったらだいぶ癒えて、自力歩行できるようになったんです。最初の日はすり足で少しずつしか移動できないくらいだったんですけどね。
そこからさらに1日経つと普通に歩けるようになったんですけど、すごく嫌な感じがつきまとっていて。ところがもう一回MRIやレントゲンを撮っても何の画像も写らなくて。それで結局、国内でグロインペインでの権威だったドクターのとこで診てもらったら、「バランスが崩れているからそういう痛みにつながってる」という話でした。
ただ、バランスが崩れてるのはわかっても、どこが悪いのかはわからないんですよ。それで恥骨結合部が痛いんじゃないかって話になりました。恥骨はつながってないんですけど結合部はあって、そこが炎症を起こしてるから、原因はそれじゃないかって。
だからレントゲンを撮りながら恥骨の間に注射針を入れて、薬を注入するというのもやってみました。でも症状が変わらない。じゃあ何しようって安静にして、バランス取る筋トレをしながら、復帰していったんです。
最初の恥骨結合炎のときよりも早く復帰できたんですけどね、そこからちょっとずつ調子が悪くなってきたというか、コンディションがうまく上がらないという感じがしましたね。その当時がもう35歳ですからね。もうコンディション上がらないですよ。それが当然なのかもしれないですけど。
でも、そうやって苦しかったことが自分を強くしてくれる財産にもなるんじゃないかと思ってます。これまでにいろんなことを経験しているから言えるんですけどね。これはこうなるだろうって想像できるし、ケガの間は別の部位を鍛えられるっていう思いもあったんで。それで強い自分を作っていくことができるかなって。ただ、もしこれから経験しろと言われても、アキレス腱断裂とか前十字断裂とか嫌ですけどね(笑)。
サブ組を盛り上げる使命を全うした日韓W杯
2002年日韓ワールドカップのメンバーに入ったときは、フィリップ・トルシエ監督が自分に求めていることは2つあるだんろうと思ってました。プレーの部分は多少あったかもしれないですけど、チームを鼓舞するというか。チームを一つにしていくという部分、役割も求められているんだろうなって感じてましたね。でもそれでも日本代表として戦えることに喜びを感じてましたから。
そりゃ試合には出たいですよ。出られるもんだったら出たいのは間違いないです。でもそこで戦う23人の中の1人に選ばれるというのは、なかなかできないことですからね。どのワールドカップでも同じなんですけど、23人しか選手として登録できない中で戦える、期間としては長くても1カ月ですけど、そこで日本を背負って立てるというグループに入れることには幸せを感じてました。
だから自分のコンディションもそうですし、チームの気持ちのコンディションも整えなきゃいけない。みんなに気を遣ったりしなきゃいけないというのは感じてました。自国開催でしたしね。その当時は開催国が決勝トーナメントに進出できなかったことはなかったんですよ。まずそれを達成しなきゃいけない。
試合に出る選手が躍動してくれることがとにかくまず第一だし、その後に続くベンチにいる選手が、どう気持ちを持っていけるか。体のコンディションもそうですけど、心のコンディションをいい方向に持っていけるかというのが勝負だと思ってましたね。
あとは普段の練習でいろいろ考えてました。だいたいレギュラーは固まってくるじゃないですか。その選手のケアなんていらないんですよ。そこは選手が自分でやって当たり前だし、気分も乗ってるだろうし、コンディションを作りやすいんですよね。試合があってリカバリーがあって、次第に試合に向けてコンディションを作るっていう、いつもやってることだから。
でも、サブの選手のほうはキツいんですよね。試合をやらない日、アップだけで終わる日、アップもしない日って日々バラバラで、そこから高めなきゃ行けないんですよ。試合には出てないけど疲れてるんです。移動もあるし、アップしかしてないけどすごく疲れてるんです。精神的にも。
それでも肉体的に辛い練習を入れてないと、いざ出るときに動けない。だから辛いこともやらなきゃいけなんです。ただ気持ちが上がっていかないと、辛い練習も有効的にはならない。だから出てないみんなをどう盛り上げていくかということがあって。
それをオレと秋田(豊)がやれば、他のヤツはやらないわけにはいかないだろうって思ったんですよ。だから秋田がいてくれてすごく助かりました。「2人で盛り上げよう」って言い合って。
サブの選手の気持ちを高めていかないと、チームが一体化しないわけですよ。だからサブが盛り上がってること、サブの調子がいいことがチームを支えると、ずっと僕は思ってるんです。
それは僕が控えだった1993年ワールドカップアジア最終予選、ドーハのときからそうですよ。ドーハのときはどちらかということ試合途中から出させてもらってましたけど、出てないときは「オレがやってやる!」っていう気持ちをずっと作ってなければダメだなって思ってました。
サブが紅白戦で勝つことはこのチームを盛り上げていくことになるんだって。だからサブはサブですごく盛り上がってたんです。「おう、これ勝っちゃおうぜ」って励まし合って。練習でサブ組は仮想イランの役とかやってました。タケ(武田修宏)なんて仮想ザリンチェフ、サイドバックの役だったし。
そんなところでサブが盛り上がるのが一番だっていう経験もしてたんで、自国開催っていうもっとプレッシャーがかかる中では、控えている選手が一層重要だなってね。
ただね、実はすごい怖いと思ったこともあったんです。初戦のベルギー戦で57分に先制されたんですよ。あのときはひやりとしました。これこのまま押し切られて初戦を落とすというのは一番怖かったので。
……あの1戦目の、1失点目は本当に怖かったですね。「やっばいなぁ〜」って思いましたね。
そう考えると、失点から2分後の59分、タカユキ(鈴木隆行)が取った点というのはすごい大きかったんですよ。試合は結果的に引き分けでしたけど、次のロシアとチュニジアに勝てたというのは、その流れがあったからだと思いますね。
流れということでいうと、ドーハのイラン戦で、ゴールラインから打って決まったゴールが、その後の流れを変えたと言ってくれる人もいるんですけど、あのシュートって、どちらかというとクロスなんですよね。
あのときはゴールラインギリギリに転がったボールをスライディングして止めて、振り向きざまに蹴ったから、ゴールが見えてたわけじゃなかったんです。走りながら、何となく誰かが詰めてるだろうなっていう気配を感じてて、ボールを止めてそちらのほうに蹴ろうとしてたんですよ。
ところがスライディングしてたから体が傾いてて、いい形でゴールのほうにボールが向かったんです。GKもクロスを予想してたと思うんですよ。だから裏を突く感じになって入ったんで、ラッキーが重なってたんです。
狙ったというか、そっち方向に蹴ろうと思ってただけで。ゴールまでは狙ってなかったかもしれないですね。僕の性格だったら狙わないです。もっと確実なところを狙いますよ。僕のシュートのほうがだいたい確率が低いから(笑)。
結局はドーハでは3位になって1994年アメリカワールドカップには出られなかったんですけど、もし出てたらもっと日本のサッカーは先に行けてたかもしれないですね。でも、それは「たら・れば」ですから。あのドーハがあったから次につながったのかもしれないし。いろんなものが要因として日本サッカーに関わっているんだろうと思いますね。
海外から日本に帰ってきたら生姜焼きが食べたくなる
今は質というか、タンパク質を多く摂るようにしています。まぁそれも見た目でそう思うだけで、これも食っちゃおうかなって思ったら食っちゃいますけどね(笑)。でも昔は菓子パンを食べてましたけど、今は安易には食べないようになりました。いつも朝は菓子パンだったんですけどね。今はおにぎり、ゆで卵、それくらいです。
現役時代からは体型が変わりました。筋肉が落ちましたし、体脂肪率もそのぶん高めになってきているから、それをどう減らしていこうかなって。今の体脂肪率は10パーセントぐらい、9〜11パーセントをうろうろしてます。
昔は6~8パーセントで、一番低いときで4パーセントでしたよ。それもオフ明けで4パーセントだったんで、これはいいと思ってました。オフの間そんなに気を遣ってなかったんですけど、休むのが怖かったんでトレーニングしてましたからね。
あとはシーズン終盤にケガするってことも多かったので、休みの間もとにかくトレーニングを続けなければいけなかったり、メニューが出てて、それをやり続けてたということが関係してるかもしれないですけどね。
当時から怪我をした時はあんまり脂を取らないようにしてました。脂質を減らしてたし、間食もしないようにもしてました。当然お酒も、復帰するまでは飲まないって決めてましたし。気を付けてたのはそういうことぐらいですよ。食事は奥さんのほうが気にしてくれてたかもしれないですけどね。
あ、そう言えば2018年ロシアワールドカップからはキレキレになって帰ってきたんですよ。下痢になって(笑)。腹を壊して、24時間絶食して、水分はちょっとだけ取ってましたけど、そうしたら止まるんですよ。で、止まったと思って一気に食べたらまた下痢する。それを3回繰り返して、一気に食べるとよくない。ちょっとずつ食べようって。
それでもトレーニングをやっていたら体がバキバキになってて。日本に帰ってきて体脂肪計に載ったら、8パーセントになって。だから絶食が一番いいのかな、お腹痛かったけど体絞れたからいいやって(笑)。
昔から、海外から日本に帰ってきたら生姜焼きが食べたかったですね。大学のときは通ってる喫茶店のランチの生姜焼きが一番好きでした。今好きなのは生姜焼き、ヒレカツですね。浜松に僕が一番好きなとんかつ屋さんがあって、そこは浜松に行ったら必ず寄ります。「とんひろ」っていうところですね。
今僕はJ3リーグのアスルクラロ沼津に所属していて、沼津に練習に通ってます。それで沼津に行ったときは「めし処 しめしめ」っていうところに行ってるんですよ。お母さんとお父さんが本当にいい人で。昨日も行ったんですけど、僕が生姜焼き好きってことを知ってるんで、出してくれるんです。
あとは「たんぱく大国」っていう、沼津インターからすぐのところにある店なんですけど、ここもお母さんがすごく良くしてくれる人で。旬の魚を出してくれて、そこもお勧めです。昼時は玉子や漬物、納豆も自由にとっていいんです。なくなったら終わりなんですけど。ここも僕を家族みたいに扱ってくれますね。わかりやすい場所にある店ですから、ぜひ行ってみてください!
中山雅史 プロフィール
筑波大学を経て1990年にヤマハ発動機へ入団。同年には日本代表入りし93年にはドーハの悲劇も経験。その後怪我もあったが97年に代表復帰し98年W杯では日本唯一の得点を挙げ、Jリーグでも得点王を獲得。2002年W杯でもロシア戦に出場した。2012年に現役を引退したが2015年に復帰し、アスルクラロ沼津に所属している。
1967年生まれ、静岡県出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。