いつも強気で常に明快
そんな秋田豊でも
心が折れそうになったときがあるという
夢を絶たれたときは
無謀な友人が救ってくれたそうだ
焦りは考えを変えて乗り切った
ストイックに努力したのも間違いない
500グラムに気を遣っていたという
メンタリティこそが秋田そのものかもしれない
2浪して同じ大学に入ってきた高校の同級生が人生を変えた
バルセロナ五輪予選のとき、強化選手でチームに帯同してたんですよ。だから愛知学院大学2年生のときって、U-23日本代表の合宿とか、イタリアとかドイツの遠征にも行ってました。メンバーも豪華というか、ノボリ(澤登正朗)や、相馬(直樹)、藤田(俊哉)、三浦(文丈)とか、そんないろんな選手がいましたよね。
そのときにオレ、関東の選手たちとは結構レベルが違って。体力とパワーやヘディングはあったけど技術がないし、なかなかうまくいかないこともあって。でも「これからレギュラーになるためがんばろう」って決心したんです。
ところがそのタイミングで、山口芳忠監督の上に横山謙三総監督が就任して方向が変わり、落とされちゃったんですよ。そのときは「オレどうしたらいいのかな」って本気で途方に暮れましたね。それまでで一番やる気になったときに、足元をすくわれたというか。
どの方向にがんばったらいいのかわからなくなって。そのころ、プロができるという話がささやかれてたんですけど、モチベーションが上がらない。モチベーションが上がらないという経験はほぼなかったんですけど、そんな気持ちだけでやってる人間からやる気がなくなってしまって。
これからどうしようかと思ってたら、高校時代の同級生が2浪して同じ大学に入ってきたんです。そいつが、「オレ、パワーリフティングで学生チャンピオンになる」って言い出して。話聞いて「まさか」ですよ。「そんなお前……でも、いいや、じゃ一緒にやろうか」って。
でも、「お前そんな体で今からできんのかよ」って感じでね。2浪してたんで、ハンディあったと思うんですよね。なのにチャンピオンになるって言ってるし、オレもプロになりたいから、「じゃあプロになるために体作るからオレもトレーニングするよ」って。そっから、またモチベーションがグッと上がって。
彼は基本的にはすごい細いヤツだったんで、学生チャンピオンになるためにまず体重も増やさなきゃいけないって、卵、白身を10個、プロテインを入れてミキサーでかき混ぜて飲むんです。それをずっと見てたんで。一緒に飲んだりもして。
朝4キロ走って学校に行って、勉強して練習して、そのあとにウエイトトレーニングして、そこからまた走って帰ってました。勉強もまぁまぁやってたんですよ。普通に合格するだけの成績はとってました。
僕は勉強で飯食っていこうと思ってなかったけど最低限のことはしようとは考えてて。ただ大学はサッカーのために行ってたし、自分にとっていいサッカーの環境を得るためにどうすればいいかって考えてたんです。それで勉強は最初の3年間でやって、4年生のときってほとんど授業を受けなくしてもいいように、授業はあと1つか2つだけ受ければいいという状態にして、ずっとトレーニングしてました。
もちろんサッカーのトレーニングも走ったりもするんですけど、そのあとに彼と、ウエイトやって。一緒にやりたいという人間もいたんですけど、でも1日、2日経つともう一緒に付き合えない。胸だけで15セットぐらいやってたり、スクワットとかもやってたし、付いてこられないですよ。
ただ、ホントは同じことはできなくても、同じように続ければいいんですよ。100キロを上げる人間と80キロを上げる人間がいてもいいわけで。僕が120キロ上げてて、彼は180キロ上げてたんだけど、がんばるところとか耐えるところは一緒であって。
お互いがお互いに、気持ちのバランスを整えていたというか、やっぱり、1人でやるというのはすごく難しいから。一緒にやる人間がいることがいいんです。どっちかのモチベーションが落ちてるときってあるから、そんなときに相手を見てやる気になったり、オレもやらなきゃって思えるんですよ。伸び悩むときってあるから。
それぐらいのトレーニングをずっと、2年ぐらいやってました。だから2年間はずっと一緒にいたかな。試合の翌日の練習が休みのときでもウエイトルームに2人でいって、ほとんど一緒にやってたかな。それがうまくいって体を大きくすることができて、プロになってからもプレーできたって思いますね。
彼のおかげでモチベーションも上がって、キック力なんかも全然変わって。ヘディングは、高校のころから自分のジャンプの最高点でボールを捉えるというのができてたんだけど、高校選手権で自分の頭の上からヘディングされたんです。そんな大きくないヤツに。
自分のほうが背が高くてもバネのあるやつに勝てない。やっぱりジャンプ力を付けなきゃいけないなって、パワーとかジャンプ力を付けるために体全体を太くして。そのことによってパワーなんかでは関東や関西の選手にも負けないっていう自信ができたんですよね。
目的意識を持ち続けられたことは、そこが僕の人より秀でてる点といえば、そうかもしれないです。今日本代表を見てると本田圭佑や中島翔哉なんかはそういう諦めない気持ちとか信念を持ってると思いますね。
今まで生きてきた中で、やり続けることができる人ってごくわずかで。本田って小学校の文集にミランで10番をつけたいって書いてるんですよ。その思いがあるから、日々「今これをやらなきゃいけない」という目標ができて、そのために努力できる。
中島も高校の時に見たときは目立つしゴールもどんどん取った。けど、プロになったら全然目立たないんですよ。体もちっちゃいし。スピードもそんなにあるわけじゃないし。でも彼はそれで諦めるんじゃなくてトレーニングした。だから成長できる。結局、諦めない人間は伸びるんです。
でもなかなかそういうモチベーションとか続けられる人間とかいないし、すごい難しいじゃないですか。僕が監督をやったときもすごく感じましたね。「好きなサッカーやるんだからトレーニングするの当たり前だろう」って僕は思うし、モチベーションや勝ちたいという気持ちを持つというのは当たり前だと思うんだけど、違う選手たちもいるんです。
人それぞれモチベーションとか、ものに対する思いとかが違うし、そこのギャップにはすごく苦しんだし。ただ、僕は大学のときに彼と出会ったから当たり前だと思ったし、そうやって続けられる人間はずっと信じられるとわかりましたね。
言ったことを守ることって、その相手との関係が続くかどうかっていうことに関わってくると思うんですよね。辛くても守れる相手だってわかるから、「コイツすごい」と思えるし信用できるし、「コイツのためだったら」と思えるし。相手もそうだと思うんです。お互い、何かあったら助け合うっていう、濃い関係ですよ。
彼はね、チャンピオンになりましたよ。それも超級っていう、一番重いクラスで。今は北海道で、食材会社の社長をやってます。何かを続けるっていうのはすごく難しい。それができる人間ってのは一生の友だちになるし。彼は自分が苦しいときに支えてくれた人間というか。親友は誰かって聞かれたときに彼の名前が出ますね。
ウエイトトレーニングで日本サッカーは変わる
「筋肉を付けるとスピードが失われる」と言う人もよくいたんですけど、じゃあウサイン・ボルトがどうなのかを考えればいいと思うんですね。ボルトも筋肉の量に比例してスピードが上がってくるんですよ。
ただ、筋肉を付けすぎて重くなってしまうと、スピードは出ても動き続けることができなくなるというのはあります。だから僕は大学時代に筋肉をつけて、いらないところはプロになってシェイプしたんです。
僕はたまたまプロになったばかりのとき、サイドバックをやったから、シェイプできたというのもあるんです。大学のときって82.0キロぐらいまでいってたんで、そこから79.0キロまで落として、78.5キロが一番いいということがわかって。
その78.5キロから79.0キロの間に合わせて、日々コンディションを調整していくんですよ。試合前だから体重を増やすというのはないです。たとえば79.5キロまで行くと、重いなぁって感じるんです。だから79.0キロまでに、もっと細かく言うと78.5キロから78.8キロぐらいに収めてました。
試合後も体重はそんなに落ちなかったですね。パワーとスプリント系のポジションだから運動量としてはそんなになかったから。サイドバックだったらまた違うんでしょうけど。
それから五輪の柔道は、ロンドン五輪ではメダルがゼロだったけど、リオ五輪では全7階級でメダルを獲るほど成功しましたよね。劇的に変わった。サッカーもそうなんですけど、日本人は技術ってあるけど、体で抑え込まれてスピードや技術を出す以前に終わってしまってたんです。今、僕は日本のサッカーってそういう状況だと思います。
柔道は何をしたかというと、リオでは日本体育大学運動器外傷学研究室の岡田隆准教授が付いて、ウエイトトレーニングをちゃんとやって、日本人の技術が発揮できるだけの筋力を付けたんです。そのことによって技術もスピードも持久力も劇的に上がって勝つことができた。
サッカーでは、アフリカ人のように体が太かったりバネがある必要はない。だけど彼らに対しても対応できるぐらいのパワーとスピードというものは必要だと思うんです。今はまだみんな細い。ヨーロッパでプレーする選手では体が太くなる選手がいますよね。
昔はそういうトレーニングをやってたんですよ。ゴン(中山雅史)ちゃんとか僕は、海外の選手と対峙しても歯が立たないということはなかったし、パワーやスピードでやられることもなかったし。そう思ってるんですけどね。
筋肉と「体幹」があればダメージが抑えられるんです。筋肉で骨へのダメージが抑えられるから。そういう体を作ることで、僕は日本のサッカーが変わると思います。だから僕はウエイトトレーニングをやってくれって訴えて続けてます。
ケガをしたからこそ得られたインターセプトの技術
プロになったあと、苦しかったと言えば1996年にケガしたときですね。シーズン始まって1試合終わって、次の練習のときにパキッって右足の第五中足骨が折れて。26歳のときですね。
今は手術で3カ月ぐらいで帰ってこられるけど、僕らのときは結局6カ月ぐらいかかって。今だったら早いけど、昔はそんな感じだったんで。血流が悪いから骨がくっつきにくいんですって。だから再受傷することがすごく多くて。
今までそんな休んだことはなかったから、ストレスがありましたね。休んでたら新しい選手が出てきてポジションを奪われてしまうかもしれないという恐怖心もあったし。日本代表にも入ってたし。
最初は、1カ月ぐらいはすごく落ち込んだんです。けれど「こうやって落ち込んでも何の意味もないな」って。そこで考えたのが、「ケガをしてるからできることってないか」ということでしたね。
僕は元々パワーが売りで、パワーでボールを奪ったり、相手をなぎ倒したりというイメージしかなかったんです。でも、そのとき隣のポジションだった奥野僚右さんが相手の前にすっと入ってボールを奪うのがすごくうまかった。
僕にはインターセプトができない。だったら自分が奥野さんのような技術を身につけたら、日本代表でもレギュラーになれるんじゃないかって。それで松葉杖をついて練習場に行って、インターセプトの仕方をグラウンドの横でずっと見てました。
他にも映像を見たり、ときには「どのタイミングで狙ってんの?」って聞きにいったり。ずっと見てたり質問したりして、図々しいですよね(笑)。半年間ずっと研究して、復帰してグラウンドに戻ってから、それを実践してみたんです。
そうすると、また違った自分が出てきた。今までインターセプトできなかったのが、試合中に次第に出てくる、それによってボールを奪う可能性が上がる。気持ちを切り替えることによって、「ケガしてもよかったな」って思えました。ケガしたからこそ、何か自分のプラスになるものができた。
それでプレーの幅が変わってきて評価されるようになりました。27歳、フランスワールドカップの前年、1997年ですね。ワールドカップの1次予選では、メンバーに入ったり入らなかったりしてたんですけど、復帰してからはずっと選んでもらって、最後の流れで自分がワールドカップ本大会で出場したんですよ。
日韓W杯代表を裏で支えた「プレワールドカップ」盛り上げ
2002年ワールドカップのメンバーに入ったときは、ベテラン枠みたいな言われ方もありましたけど、それは不本意でした。まぁ自分でもレギュラーで出るだろうとは思ってなかったけど、でも隙あらば出たいと思ってたし。
フィリップ・トルシエ監督は「初戦のベルギーの高さ対策で考えてる」という話を会見でしてました。でも、いざベルギー戦で森岡隆三がケガをしたとき、監督が選んだのは宮本恒靖で。そのときは「いや、全然話、違うじゃん」って一日すごく悩んで。「そういうことか」、みたいな気持にもなって。
ただ、一日で吹っ切って「じゃあ自分に何かできることあるんじゃないか」ってゴンちゃんと話し合ったんです。そうしたら、縁の下の力持ちじゃないですけど、チームって試合に出る選手ばかりじゃないんだから、そこを支えていこうってことになりました。
1998年フランスワールドカップのときに、GKの小島伸幸さんは出る確率ほとんどなかったと思いますけど、でもそういう立場で支えてたんだなぁって。それを思い出して、そういう人間も必要だって割り切って。
もちろんちゃんとコンディションを上げるようにはしてましたよ。ただ、レギュラー以外の選手たち、試合に出なかったり途中出場の選手たちのコンディションってすごく難しいんですよね。本番の試合をほとんどやってないし。
そんな選手たちのコンディションをいかに上げるかってことをゴンさんと僕で話をして、行き着いたところが、「プレワールドカップ」って自分たちで言っていた練習試合を盛り上げるってことでした。
ワールドカップの試合の翌日、先発じゃなかった選手を中心に静岡産業大学との練習試合を毎試合やってたんです。それを「プレワールドカップ」って呼んで、そこへのモチベーションをメチャメチャ上げて。
そこでみんなでいいコンディション、いいメンタリティにして、出場したときに自信を持ってプレーできるっていう状況を作っていこうって。まぁうまくいったと思います。「こんなチャンスない」って思って、試合に出ても出なくても「日本のために何かしよう」って思ってたんですよ——。
現役時代はドレッシングをかけずに野菜を食べていた
体を作るための僕のお勧めの食事は、脂分を少なく、鶏肉、もも肉、胸肉なんかを使う料理ですね。自分は胸肉が多かったかな。味付けはほとんど薄味で、塩コショウぐらい。塩分も極力減らしながら。塩分を取るとまた水分を取りたくなって、水太りみたいになるんで。
サラダもドレッシングなんかは一切かけなくて。葉っぱの味を確かめながら食べてました。それからご飯は大学のときは丼5杯でしたけど、プロになってからは丼1杯だけにしました。
外食するときは、たとえば焼肉に行くと、ドレッシング抜きのサラダを食べ、あとは脂肪分の少ない肉を食べて。あまり肉は食べないようにしてたんですけど、アドレナリンを出すためには肉だってことで、週に1回、2回は食べてました。
それから鹿島にいたんで寿司を食べてましたね。魚ってローカロリーでしたから。そんな食事の勉強は鹿島がやってくれたんで、わかってたんですよ。目でだいたいのグラム数がわかるようになってましたね。
今は肉好きですね。サラダもドレッシングいっぱいかけて。体重は90キロぐらいあります。ダメですね。いや、やってるんですよ、走ったりもしてるし。でも新陳代謝が悪くなってるから。なのに食事の量はそのままだし(笑)。
お勧めの店は、東京・麻生十番の「礼」ですね。鳥居坂下の。店長の地元三重県の食材を使った食事がおいしいですよ。食べるのは、魚、牡蠣ですね。牡蠣は日本で一番高いっていうのが三重で取れるらしいです。牡蠣、うまい(笑)。
店には松阪牛もあるけど、やっぱり魚です。僕が好きな刺身は、ヒラメとか、クエ……うーん、全般的においしいですよ。イカもあるし。それを塩で食べるんです。アンデス、ヒマラヤ、イランっていう3種類の塩が用意されてて。醤油もあるんですけど。
肉が好きな人は牛肉のアキレス腱もいいですよ。アキレス腱を煮込んだ料理があるんです。それがね、これまた、めっちゃくちゃおいしいんですよね。

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秋田豊 プロフィール
愛知学院大学卒業後の1993年、鹿島アントラーズに入団。1年目からレギュラーに定着し、1995年からは日本代表にも招集される。1998年フランスW杯に出場し2002年日韓W杯もサプライズ招集で話題を呼んだ。
引退後は指導者へと転身し京都サンガやFC町田ゼルビアで監督経験がある。
1970年生まれ、愛知県出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。