松永成立の人生も17秒で変わってしまった。
1993年10月28日、試合終了間際のCKでイラクは意表をつくショートコーナーを選択する。クロスを上げる選手を三浦知良がブロックに行くが一歩及ばない。ゆっくりと飛んだボールはオムラム・サルマンの頭に当たり、松永が見送る中、ふわりと逆サイドのサイドネットに飛び込んでいった。
この同点ゴールがなければ、松永はワールドカップでゴールを守ることになっただろう。だが夢は叶わなかった。「ドーハの悲劇」で、日本はアメリカワールドカップへの切符を失ってしまった。
その2年後、横浜マリノスを退団し、JFLの鳥栖フューチャーズへ移籍する。だが1995年、1996年と4位で昇格を逃すと、フューチャーズは解散。松永はブランメル仙台に移籍、さらに京都へと活躍の場を移すことになった。
引退後は数多くのGKを育てるべく、様々なアイデアを活かそうとしている。松永はそんな半生をいつものダミ声で、ゆっくりと振り返ってくれた。
メンタルが壊れるほど壮絶な猛練習に明け暮れた高校時代
僕はサッカー人生の中で色々なことを教えてもらいました。まずは、浜名高校の時のことです。昔ながらのスパルタで、朝はクーパー走(12分間走)3本から始まって、砂場に行きジャンプしながら縦断した後、目の前の鉄棒で懸垂20回というメニューを30分間繰り返すんです。そうすると授業中に手がこわばってしまって鉛筆が握られない。
体もメンタルも一度にやられました。そのときはキツイとか辛いとかじゃなくて、いつ部活を辞めようかという気持ちだけで。そういう状態に追い込まれたのは生まれて初めての経験でしたから。僕は小さな頃から弱虫で、一つのことが長続きしなかったんですけど、辛いどころじゃなかったですね。練習中は水飲めない。喉はからからでした、極限状態です。
家に帰るのが夜の9時、10時。次の日は朝練があるので4時過ぎには起きてうちを出ないと間に合わないので。年間のうち休めるのは大晦日と元旦だけで。あとはずっと練習、試合、練習、試合です。普段の生活は朝練、昼練、夕方の授業が終わってからの練習。授業があっても3回練習で、合宿だと夜の練習までありました。夜は監督の機嫌が斜めになると1時過ぎまでなんですけど、そこから寝ても6時に起きて朝練なんです。
これでメンタルはぶっ壊れました。でも、そのおかげでそれ以降、よほどのことがない限りはメンタル的には潰されることはなくなりました。だから僕のメンタルのベースはすべて高校時代にできたと思います。今思えば、あの高校の時の先生にはものすごく感謝してます。
自分でも乗りきったのが不思議ですよ。乗り切れたんじゃなくて乗り切らざるを得なかったというのが本当のところなんですけど。というのが、僕の親父も昔ながらの人間で、負けて帰ってくる、弱気になったり途中でやめたりするのが大嫌いな人だったので、怖かったですね。グラウンド行っても監督が怖いし、家では親父が怖いんで、辞められなかったという言葉が合ってます。
ただ、僕はこういうことは必要だったかと思います。肉体的にもメンタル的にも壊されて。たたきのめされて、そこから立ち上がるパワーを持てたことは、その先の人生を歩む上で大きな出来事だったと思います。
高校を卒業したら真剣にサッカーをすることを止めようと思ってんですよ。進学しようとおもっていた愛知学院大学では4年間のんびりサッカーをしようと考えていたんです。サッカーに対しては嫌悪感を憶えることもあったので。でも、大学に推薦で入れることになったので、4年間しっかりプレーしないと、大学が高校の後輩を取ってくれないかもしれないので、そこはしっかりやろうと思っていましたが。
ところが、僕の代に高校の全国大会経験者が入ってきたり、指導者が早稲田大学出身の方で、釜本邦茂さんの2年後輩で活躍した人だったり、その後日産自動車に入る境田雅章さんだったりと、全国大会でも優勝できるようなメンバーが揃ったので、マジメに取り組まざるを得ない状況になってしまいました。そうしたら4年間の間に、日産自動車を率いていた加茂周監督の目にもとまって……。それで今に至るという感じです。
ただ、社会人になった後も辛いことはありました。最初は日産自動車に入ったとき。それはまずかった(笑)。カズシ(木村和司)さんやらタカシ(水沼貴史)さんやら、キンタ(金田喜稔)さんやら、森孝慈日本代表の中核となるメンバーがぞろりと揃っているんです。だいたい半分は代表のレギュラー。そんな環境ですよ。
「なんでお前来たの?」「お前ヘタクソやね」とか、そういうことを目の前で言われました。毎週です。飲みに行くときだけが、その辛さを忘れられるとき。次の日の練習に出るのはイヤでした。それが4年間続きましたね。それでも加茂監督はずっと使ってくれていました。試合に出る以上はしっかり練習しなければいけない。人がいなくなるまでやってました。うまくなりたいというより、嫌なことを忘れたいために練習したという感じです。
言ってる人たちは冗談だったんでしょう。悪気ないんですよ。でもぽろっと言う言葉がキツイ。新人が先輩から、しかも代表選手から言われたら、そりゃ気にしますよ。みんな口悪かったし。口も達者だけどサッカーもうまかったから、僕はもちろん文句言えないし、態度にも出せませんでした。ひたすら「すみませんでした」と謝るしかないんです。
そのうち、日本代表にも呼ばれるようになりました。大学時代に日本代表の厳しい部分も目の当たりにすることがあったんですよ。大学生の頃、日本代表と合同トレーニングをすることがあって、当時のGKの方に「こんにちは、松永です」と挨拶しても「フン」ってしか答えてもらえない。GK同士2人で競り合ってボールを取る練習で、自分が勝ちそうになると後ろから足を蹴られて、倒れたところで「小僧、なめんなよ」と。
後々、そういうことを言ってた方に「こんなこと言われたんですよ」と冗談めかして伝えると「オレたちがそうやって鍛えたから、お前は代表に入れたんだぞ」って返されました(笑)。
記憶が飛んだ…ドーハで経験した次元を超えた辛さ
ドーハではスタジアムに入ったとき、芝が深すぎて「これじゃフィールドプレーヤーが疲れるな」と思ったことを憶えてます。それに中2日の連戦ですからね、今じゃ考えられないです。しかも出場できるのはアジアから2チームでしたからね。
イラク戦は……何というのかな……辛いとかそういう……そういう次元を飛び越しました。ボールがね、ふわっと浮いて吸い込まれていって。ウソだと思いました。
試合が終わってすぐに記憶が飛んでるんです。そんな経験はあのときだけですね。日本に帰って1週間後にJリーグが再開したのですが、勝敗に対して心が動かない。自他共に認める負けず嫌いだったのに。何も感じない時間が続くんです。生まれて初めての経験でした。ボールを見たくなくなった。精神的に……うーん。寸前でワールドカップの扉を閉じられちゃったので、自分が思う以上にショックでした。2、3カ月はそんな状態が続きました。
ドーハと高校はどっちも辛いんですけど、高校の時は純粋に辛い、ドーハはそれを超越していました。表現は難しいんですけど……言葉が浮かばなくて申し訳ないんですけど……そうとしか表現できないですね。
急激に期待されてあそこまで行ったという感じもありましたし、実力どおりだったという話もあります。あとでハンス・オフト監督は、初戦のサウジアラビア戦で引き分けたことが問題じゃなくて、2戦目のイラン戦で勝ち点を取れなかったのがポイントだったと言ってました。予選はどんな試合でも勝ち点を取るということが大切ですから。
自分が日本代表に呼ばれ始めた頃は、試合・練習で使ったユニフォームの洗濯を自分自身でするというのが当然でした。与えられた環境の中でベストを尽くすというのが当然だったので、文句を言う選手はいませんでした。海外に行くと、基本は現地の食事ですから、僕は大丈夫でしたけど、食が細くなって、パフォーマンスを落とす選手もいましたね。
日本代表にコックさんがついてきてくれたのは、ワールドカップ最終予選、ドーハの時からだったと思います。それまでは食事が足りなかったら自分で持ってきた缶詰やインスタント食品、インスタントラーメンなんかを食べていました。
日本はドーハの敗戦から学ぼうとしました。あそこから指導者のライセンス制度とか育成システムが充実しました。それがなかったら、フランスワールドカップやその後のワールドカップに連続して出ていないと思います。今年の五輪もちゃんと育成システムが確立された競技では結果が出ていたりしますから。そして小さいときから海外での試合を経験できるようにして、その中でできる限り高いレベルの大会に出場することで、「メッシ? 子どもの頃から知ってるよ」というような選手が数多く育ってくれば、日本はもっとよくなっていくと思います。
ドーハ後の波乱の人生…クラブ消滅後に届いた一通の手紙
その後、1995年にチームを退団することになりました。ずっと日産、横浜マリノスでプレーしていて、愛着以上のものがあって、きっとこのままここで現役を終わるのだろうと思ってたから、退団が決まった帰りの車の中では運転しながら泣きましたね。涙が止まらなかった。悔しいという気持ちではないんです。これで去らなければいけない、戻ることはないだろうという感情でした。
今思えば、いろいろなクラブに行って違いを知り、いろいろな指導者を見られたことは自分のためになったと思います。どんなことがあったとしても、「こんなこともあるよ」と思えるようにもなりました。バカ正直にいろんなことを信じる人間だったけど、一度引いて周りを見てから判断できるようにもなりました。
移籍先は鳥栖フューチャーズになりました。いろんな環境が悪くなるのは覚悟していきました。ところが行ってみると、クラブの人たち、選手、スタッフ、それに鳥栖の、というか佐賀県民の人たちに本当によくしてもらいました。本当にうれしかった。しかし、鳥栖フューチャーズは1996年度で潰れることになってしまったんです。
その時、僕に一通の手紙が届きました。たぶん高齢の女性からだったと思います。和紙に、筆で心を込めた言葉がしたためられていました。「チームが潰れても、ぜひ佐賀に残ってください」。この手紙のこと、僕は今でも忘れられないです。この手紙を読んで、鳥栖に僕が来た意味はあったと思うことができました。
でもチームはなくなった。マリノスから出て行くとき、「これからは想像もしないことが起きるだろう」と思ってはいましたが、まさかサッカーチームが消滅するとは思ってもいませんでした。こういうこともある。これも受け入れなければいけない。僕にできることは鳥栖の発展を願うことと、自分が今後どうするのか考えることでした。
サッカーを続けるか、止めるか。そう思っていたときに仙台から話をいただき、その後京都に移籍して、現役を続けることができました。人の縁には恵まれたと思います。京都で松本育夫さんとも出会うことができましたし。マリノスに戻ることも考えていなかったのですが、早野宏さんが監督に就任なさったときに自分のことを憶えていてくださって、呼び戻してもらえましたし。社会人になったばかりの時の加茂監督から始まって、本当に周りの人には恵まれたと思います。
最初に代表に呼んでいただいたときは横山謙三さんが監督でした。横山監督は元々GKでしたから、すごく絞られるかと思っていたんです。横山さんは鉄拳指導もあるっていう噂でしたから。でも代表ではGKコーチに任せて自分は何も言わない。言いたいこともあったでしょうけど、そこは我慢してらっしゃいました。監督を辞めた後も、いつも優しい声をかけてもらって。見た目は怖かったけど、すごく優しい方でした。
その後の代表でも、オフト監督と清雲清純さんとの関係もよかったし、2人ともすばらしい人たちで、今でも僕は感謝しています。加茂さんには今でも真正面に立たれると、直立不動でしかしゃべられないです。自分からは一切しゃべられなくて、加茂さんが話したことに対して答えるしかできないです。加茂さんには頭が今でも上がりません。
移籍を繰り返したことで、日本のいろいろな名産に巡り合いました。仙台にいた時の海産物のおいしさは、忘れられないですね。寿司屋で出てくる岩牡蠣が本当に新鮮で、さすが仙台だなって。でも一番忘れられないのは九州で食べた蕎麦ですね。どこにあったかも、店の名前も覚えていないんですけど、鴨蕎麦が最高でした。僕は元々麺類が好きなんですよ。一日三食麺類でいいくらい。だから見かけたおいしそうな麺屋さんに入るんですけど、そのときは住んでいた佐賀市内から車で1時間程度走ったところにあった店にふらっと入ったんです。そうしたら鴨もネギも炭で焼いてあって香ばしく、麺も最高で。あんなにおいしい蕎麦はなかったですね。佐賀から車で1時間ぐらいだったから、佐賀、福岡、大分、熊本、長崎のどれかだと思うんですけど、残念なことに憶えてない。もしわかったら、また行って食べたいと思ってるくらいです。
自分のサッカー人生は波あり谷ありだと思います。でもね、常に家族には迷惑をかけてきました。どこに行くのにも一緒でしたからね。鳥栖にも、仙台にも、京都にも。家族に対しては……振りまわしたので……いまでも申し訳ないです。僕は激情派だと思いますが、家庭内ではかなり温厚です(笑)。嫁さんには子どもたちに甘すぎると言われるんですけど。
人間が成長するためには、辛い経験が必要だと言われます。だけど、僕はドーハの悲劇を、あえて経験させたくない。自分だけでもうたくさん。……ただ、サッカーはそういう経験をした人間も救ってくれるものだと思います。立ち直るきっかけを与えてくれる。それがサッカーの良さじゃないでしょうか。今は恩返しでいいGKを作る、いい選手を育成する、そういうことで還元できればと思っています。
昔は海外に試合に行って、そこに応援に来てくれるサポーターの人たちも少なかったから、一緒にご飯を食べたりしてた。確かに昔だからできていたと思いますけど、今はいろんな分野の人たちの間にハッキリとした線が引かれすぎているんじゃないかと思いますね。みんな「サッカーファミリー」じゃないですか。そうじゃないと、グラウンドレベルとスタンドレベルと一緒に戦うことはできない。
昔はよかった、じゃなくて、よかったことがまたできるように。本当の意味で「文化」にしていかなければいけないと思っています。日本リーグ時代に、国立競技場で500人しか観客がいないところでプレーしていました。それがJリーグができて、満員のスタジアムを見て、カズシさんやタカシさんは涙を流してた。あの純粋な涙を忘れないよう、サッカーで感動できるようなことを一つでも多くこれからも作っていきたいと思います。プロリーグを熱望していて、それが多くの人たちの尽力でできた。あのとき胸に去来した思いは忘れられないし、伝えていきます。
松永成立 プロフィール
愛知学院大学を経て1985年、日産自動車に入団。1年目から正GKとなり、1988年には日本代表に選出。
1993年の「ドーハの悲劇」以後、鳥栖フューチャーズ、ブランメル仙台、京都パープルサンガと渡り歩き2000年に引退し、現在は横浜F・マリノスGKコーチ。
1962年生まれ、静岡県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。