あなたの高校2年の終わりの頃を思い出してほしい。いよいよ高校生活も最後という年度を前に、希望とともに不安もあったかもしれない。
そしてあなたはサッカーがうまく、Jクラブでトップに昇格できそうな生徒だと想像してほしい。どうやら高校生ながら試合にも出してもらえそうだ。いつ試合に出られるだろうか。最初はベンチ入りできるだろうか……。開幕を1週間後に控え、きっとあなたの胸は高鳴ることだろう。
ところが、そう思っていた2週間後、あなたは韓国にいる。冷たい雨の降る中、テレビで見ていた屈強な選手が容赦なく襲いかかってくる。信じられないスピードで動く相手についていかなければならないだけではない。相手から厳しいチャージを受け、身体のあちこちは傷んできた。ベンチを見ても交代させる気配はない。そして逃げることも許されない。なぜなら日本を代表して戦っているからだ――。
そんな思いをしてプロになったのが市川大祐だ。わずか2週間で、1人の高校生は日本中の目が注がれるプレーヤーになった。そして自分のものだけではない重い責任まで負わなければならなくなった。学生生活最後という感傷に浸る暇もない。それまで以上に、すべてをサッカーに注がなければならない日々が突然やってきたのだ。
考えようによっては、栄光の日々が訪れたとも言えるだろう。ところがすぐに苦難の日々がやってくる。プレーしたくても身体が動かない。自分の心が折れたせいだと思って奮い立とうとするが、それでも足は前に出て行かない。
そんな自分に冷たく接する人物もいたという。チームから外されもした。だが、焦りと絶望を払ってくれる仲間もいた。
市川はそんな話を、ニコニコしながら話してくれた。屈託のない笑顔は、デビューの頃と少しも変わらない。
イチ、代表に入ったよ…僕はてっきり年代別代表だと思っていました
最初がいきなりでした。まず清水エスパルスの石垣島のキャンプに呼ばれたんですよ。1998年、17歳の春休みでした。
その前の年の1997年の天皇杯で、清水の初戦の福島FC戦に出ていました。6分か7分の出場ですね。他にもときどき一緒に練習させてももらっていました。でも、「伸びてくれよ」みたいな、研修みたいな感じでの練習参加だったんです。若い選手を呼んで経験させるみたいな。
ところが、石垣島のキャンプに合流すると、これは違うぞ、と感じました。監督から求められて呼ばれたという雰囲気でしたね。キャンプから帯同するのが、ユースからは僕1人だったんですよ。いつもは同じユースからあと3人ぐらいは呼ばれていたのに。そのとき、トップの試合に出るかもしれないと強く意識しました。
僕自身も呼んでほしかったし、チャンスだと思っていました。天皇杯に出たことで意識が大きく変わっていましたから。もちろんプロになるということは意識してましたが、天皇杯でプレーしたことで、トップで試合に出るということがものすごく現実的になったんです。
キャンプでやっているときに、すごくうまくできたと思ったし、やれるという自信はつきました。でも、自分と同じポジションだったのは、日本代表になった安藤正裕さんだったし「いつかチャンスが欲しい」と思ってるくらいでした。
ところが開幕のコンサドーレ札幌戦でまさかの先発でした。使われるなんて思ってなかったんです。試合の1週間前にオズワルド・アルディレス監督に呼ばれて「開幕、スタメンで行くぞ。準備してくれ」と言われました。
誰にも言えなかったですね。親にも言いませんでした。何か、言えなくて。言ったら先発じゃなくなっちゃうかもしれないって。誰から漏れてしまうという心配じゃなくて、この感情は自分の中だけで止めておきたいって。緊張もありました。
3月21日の試合当日、スタジアムのアナウンスの先発発表で、僕の名前が呼ばれたときの歓声は今も思い出すくらいすごかったんです。ピッチに立ったときは自信がありましたね。自分としてはキャンプがうまくいったと思っていたし、やれると信じていました。
でも、身体が全然うまく動かない。自分としても満足できるプレーができなかった。相手がうまいというのもありましたが、自分の力が出せなかったんです。結局56分で交代しました。試合は4-1で勝ったんですが、ロッカールームに戻って悔しくて泣きました。もっとできたはずだったのに。あんなに張り切ったのにって。
ところが、その次のアウェイ、3月25日の京都パープルサンガ戦も先発で使ってもらったんですよ。そのときは前半45分間だけのプレーで、試合も0-1で負けました。ただ、僕としてはすごくいいプレーができたと思ったし、札幌戦よりもやれているという実感があったんですよ。だから前半で交代を告げられたときは、悔しさよりも少しだけ満足感がありました。
その2試合が終わった後、自宅に帰ってゆっくりしていたら強化部長から電話があったんです。「イチ、代表に入ったよ」って。僕はてっきり年代別代表だと思っていました。だから「あー、はい。何の代表ですか?」って聞いたんです。そうしたら「フル代表だ」って言われて、信じられずに「はい? 何言ってるんですか?」って答えてしまいました。
だって、Jリーグに出たのは2試合だし、どちらも90分出ていないし、なぜこのタイミングで呼ばれるのか理解できませんでした。本気で「オレの何見てんの?」って。しかもまさかアウェイの韓国戦に。
その次の練習日にクラブに行ったら記者の数が半端じゃない。「何だ、コレ?」って感じでした。そりゃみんな驚いたと思うんですよ。まだ2試合しかプレーしてない高校生を、ワールドカップの年に、しかもアウェイの日韓戦に招集するなんて。僕も驚いてましたから。
日本がフランスワールドカップ出場を決めた試合、「ジョホールバルの歓喜」のときはテレビの前で大喜びして、「日本がワールドカップに出たらどんなプレーをするんだろう」ってメチャクチャ楽しみにしてたんです。遙か向こうの世界ですね。ところが、いつの間にか自分がその場所に呼ばれている。
日韓戦でまさかのスタメン…スタジアムに向かうバスの中、息が苦しくなった
招集されたメンバーで、自分と同じ右サイドバックのポジションだったのは、鹿島アントラーズの名良橋晃さんでした。そして次の試合、日韓戦の前のJリーグがアウェイの鹿島戦だったんです。
ただでさえ注目度は高まっていました。そして試合当日、アルディレス監督が僕にいきなり「3-5-2の左ウイングバックでプレーしろ」と言ってきたんです。だから名良橋さんとガチのぶつかり合いになりました。そもそも左ウイングバックってやったことなかったんですよ。試合前に左足のクロスの練習をして、ぶっつけ本番です。
ところが面白いもので、前の2試合よりもっといい形でプレーできたと思います。結局、56分でまた交代するんですが、あの鹿島の真っ赤に染まったスタジアムで、雰囲気を楽しめたというか、心地よく感じることができました。
試合が終わった後に、鹿島が特別に僕の会見を開いてくれました。そこにも、ものすごい数の記者の方たちが詰めかけていて、驚くばかりでしたね。ただ、そのときは緊張しませんでした。それより、日本代表が集合するホテルに行って、他の選手たちに挨拶したときのほうが緊張しました。まだ対戦したこともない人たちばかりでしたし。
あとで他の代表選手たちに聞くと、みなさん日本サッカー協会のプリントミスだろうと思っていたということでした。代表選手は招集時、サッカー協会からクラブに「レター」と呼ばれる招集状が届くんです。その名前を見ていると、全然知らない「市川大祐」がいて、しかも所属が「清水エスパルスユース」になっている。だからてっきり間違って掲載したんだと思っていたらしいです。
厳しいワールドカップ予選は終わっていましたが、誰がワールドカップのメンバーに入るか、サバイバルレースの真っ最中でピリピリムードではありました。だけど、みなさん優しく接してくださいました。周りも高校生だから、という感じでしたよ。
3月28日のJリーグの翌日に集合し、韓国に移動してその日は軽く身体を動かしただけでした。そこから2日練習して試合というスケジュールだったのですが、練習で周りを見ていると、紅白戦ではいつも試合に出ているメンバーの中に自分が入ってるんです。だけど試合に出るなんて考えられないから「まさかなぁ」と思っていました。「オレ、90分間試合に出たことないし」って。
ところが試合当日、試合前のミーティングでホテルの部屋に入っていくと、ホワイトボードの先発に僕の名前が書かれてるんです。岡田武史監督からは事前に何の告知もありませんでした。
その後、オリンピックスタジアムに向かうバスの中で、息が苦しくなりました。初めてでしたね、あんなに息苦しかったのは。鼓動が激しくて、音楽を聴いていても何も耳に入ってこない。スタジアムについてちょっとピッチを見ると、韓国の応援団「レッドデビル」で客席が真っ赤になっている。「あぁ、この中でやるんだ」って。しかも雨、気温5度でしたよ。
もうどうしようもなくなってロッカールームのベンチに座っていたら、岡田監督が近寄ってきたんです。そして声をかけてくれた。「イチ、お前がここで失敗したからって何も失うものはないんだから、気軽にプレーしてくれ」って。その台詞は今でも忘れられないですね。
そうすると、もう1つのアドバイスを思い出しました。
僕はその時点で、だいたい清水でもチームの一員にもなってない。みんなについていくのがやっとという感じですよ。そのときにアドバイスしてくれたのが、大木武コーチでした。僕がエスパルスジュニアユースだったときにエスパルスユースの監督、僕がユースの昇格したときにはサテライトの監督で、僕をいつも一つ上のカテゴリーに呼んでくれていたんです。大木コーチはいつも厳しいことを言ってくれたし、いいアドバイスもしてくれてました。その大木コーチが代表に行く前に言ってくれたんです。
「イチ、周りがいくら騒ごうがお前がうまくなるわけでもないし、ヘタになるわけでもない。お前はお前だ」
代表に呼ばれたから、何か特別なことをしなければいけないとか、自分の一番いいところを出さなければいけないとか、ついそう思いがちでしたけど、「お前がやって来たことが受け入れられたんなら、そのままやればいいんじゃないの」って言ってもらって、落ち着けたんです。普段どおりやろうって。
ピッチに立って、君が代を聴いたときには、もう「やれる」という気持になっていました。戦うモードだったし、やるしかなかったし、やれるという気持になれたと思います。
だけど、自分が向かい合った韓国の左サイドは強烈でしたね。試合の前日だったか、岡田監督は韓国のビデオを見せながら「左サイドは強いぞ」って。実際試合が始まると、ギュンギュン走ってくるし、僕がちょっとでもボールを持っているとガチガチ当たってくるし。
だから判断と球離れを速くして、身体のぶつかり合いで勝負するんじゃなくて、別のところで勝とうと思っていました。でも、それってアルディレス監督とスティーブ・ペリマンコーチが日頃の練習で言ってたことだったんです。清水の練習でやっていたことが自分を救ってくれましたね。実際、その当時の清水の選手はほとんど代表選手になりましたからね。
ところがハプニングがありました。26分、井原正巳さんが負傷して交代したんです。あとで岡田監督に聞いた話では、僕には告げられていませんでしたが、僕を45分で交代させるゲームプランだったそうです。でも井原さんが交代してしまったので、僕を代えられなくなってしまったということでした。交代枠はあっても他にもっと試したい選手がいて。だから、僕はいきなり90分間プレーしたんですよ。
試合が終わった後、気持ちよかったです。ものすごく。集中できたし、迷いもなかったし。経験がなかったからこそやれたということもあったと思います。やったことがないから怖れもない。もしやったことがあったら、考えることができたり、守りたいことができたりしていたかもしれない。そんなの、まったくありませんでしたからね。
試合後、岡田監督はすぐアルディレス監督に電話して謝ったらしいです。清水でも90分間使っていないのに申し訳ないって。そして後からアルディレス監督に聞いたのは、まだ高校生で身体ができていないから、どんなによくても90分間は使わないという方針だったということでした。
本当なら守備ラインで交代することを前提に起用するのは、ゲームプランを考えると大変だと思うんです。チームのことを考えたら使えない。でも、僕を成長させようと無理をして使ってくれていたんですね。
岡田監督に部屋に呼ばれ「今回はメンバーに入らない」
日本代表の食事は基本的にバイキングです。いろいろな種類が用意されているので、ほとんどの選手はバランスを気にしながら食べ物を選んでいきます。すべての種類をちょっとずつ、というのが僕のやり方ですね。
栄養学については、清水のジュニアユースの頃から講義があって憶えていきました。最初は毎日の食べたものを記録して、栄養士の方に提出するんです。すると何が不足しているかという紙が出てくるので、それを親に見せてバランスがよくなるように食事を作ってもらっていました。
だからユースを経てプロになったときは、大体どんな食事をすればいいのかわかっていました。もちろん、すべての食事がバランスよくなるわけではありません。昼は練習後に外食することが多いので、そこで不足したものを夜食べるようにするんです。そういう勉強をさせてもらっていたことは、プロ生活の中で本当に役立ちました。
日本代表は、食事の時にどこに座るか決まっていませんでした。僕は若手でしたからできる限り早く食堂に行って、まだ誰もいないテーブルに座って先輩たちを待っていました。すると毎回、ほぼ違う選手と一緒のテーブルに座って食事をすることになりました。もしかすると、コミュニケーションを取ろうとやってきてくれていたのかもしれません。そしてそんなご飯の時間も、僕には常に刺激がありました。
僕は何とかその後も代表に呼ばれ続けて、ワールドカップ行きの最終候補にも選んでもらいました。だけど、直前合宿地のスイスで落選を告げられます。
ただ、落ちる前から「まず1人落ちるのは自分だ」とうすうす感じていました。身体が動かなくて、本当に調子が悪い。なんで、ここまでプレーできないんだって。だから「仕方がない」と思っていました。
岡田監督に部屋に呼ばれて、「今回はメンバーに入らないから、残るのも帰るのも自由だ」と言われました。「残らせてください」と僕は即答でしたね。日本がワールドカップに出る、その選手たちと一緒に生活しながら練習できる、ワールドカップに向かう準備を見られる、すべてを感じることができる。だからすべてを吸収して、ワールドカップを目の前で見たいと思っていました。
ところがしばらくすると、身体の調子がキレキレになったんです。「あぁ、発表がもう少し後だったらメンバー入りできたかもしれない」。当時はそう思いました。だけどよくよく考えると、発表がどんなに後だったとしても、きっと自分の調子はずっと悪かっただろうとわかりました。発表があったからこそ、調子が戻ったんです。わかっていなかったけど、きっとプレッシャーがあったんです。チームに残ってプレーすると決めたから、やっと動くようになった。
いざワールドカップが始まると、いくつかうれしいことがありました。僕はてっきりスタンドで観戦するんだと思っていたのですが、スタッフの身分証明書をもらえたんです。するとベンチに入って試合が見られる。ハーフタイムにはピッチに出て、みんなとボールを蹴ることができる。日本サッカー協会からすごい配慮をしてもらいました。
ただね、目の前に白いタッチラインが引いてある。その先に僕は行けないんです。またげないんですよ。ワールドカップのピッチは一歩先なのに。その一歩の遠さを感じてました。そして1998年のワールドカップは自分でつかんだ大会ではなく、連れてきてもらったというのが正しいんだと感じてました。だから4年後のワールドカップは力を付けて自分で手に入れなければいけないと思っていました。
トルシエは怒り「市川は電車を一本乗り遅れた」と言ったが…
ところが1999年になると身体のだるさが取れないんです。練習していても身体が重い、動かない、だるい。そして家に帰っても寝られない。「これは自分の気持ちが入っていないからだ。もっと練習しなければ」と思うんですが、相変わらず身体が動かない。
よく考えると1998年度シーズンは天皇杯決勝、1999年1月1日の横浜フリューゲルス戦までスケジュールがびっちり詰まっていました。高校生だったので、土曜日は学校に行って、帰ってからクラブハウスに行き、そこからJリーグの出場するという生活でした。いろんなプレッシャーも身体をむしばんでいたのかもしれません。精神的にも肉体的にも無理をしていたのでしょう。
そんなとき、ペリマン監督が「イチがおかしい」と言い出しました。それで病院で検査をすることになったのですが、始まるとすぐにドクターが首をかしげ、しばらくするとストップがかかります。そして「これはもう完全にオーバートレーニング症候群だ」と宣言されました。体力が一般の人以下に低下して、しかも休んでも回復しない状態でした。だからそこまで「もっとやらなければ」と自分を追い込んでいたのが逆効果になっていました。
正直に言うと「ホッ」としました。何かおかしいと思っていたけれど原因がわからなかったから、焦るだけだったんです。ドクターからは「休まないとこのまま別の病気になる可能性もあるし、選手生命も終わる可能性がある」と言われ、ペリマン監督も理解してくれて僕は休養することになります。
ところが、1999年もスケジュールは目一杯でした。ナイジェリアでワールドユースがあったし、その前にブルキナファソ遠征もあった。さらに2000年のシドニー五輪予選もありました。そのブルキナファソ遠征の後にオーバートレーニング症候群になってしまい、一向に回復できませんでした。ワールドユース前の合宿が始まるということで、僕は電車に乗って福島県のJヴィレッジに行って、フル代表、ユース代表、五輪代表の監督を兼任していたフィリップ・トルシエ監督と話をすることになりました。
トルシエ監督から体調を聞かれたので、「今、オーバートレーニング症候群で、ワールドユースには行きたいけれど現在の状態では戦えないから、今はしっかり治して……」と話をしたんです。ところがトルシエ監督は話を聞いている途中に怒り出して、まだ話をしているのにバッと部屋を出て行ってしまった。あとで人づてに聞いたのは、トルシエ監督が「市川は電車を一本乗り遅れた」と語っているということでした。
焦らず休養に専念したおかげで、何とかオーバートレーニング症候群は脱することができました。ですが、トルシエ監督からはもうお呼びがかからなくなっていました。2000年のシドニー五輪代表にも選ばれなかった。あとは2002年ワールドカップの日本代表に選ばれるかどうかだけが残りました。
そうなると2001年に賭けるしかなくなっていました。そして、ただ良いプレーをしても、僕に対するトルシエ監督の評価では呼んでもらえないだろうと思っていました。だから毎試合、スーパーなプレーをする。呼ばざるを得ない状況を作る。それを目標にシーズンをスタートさせました。2001年、僕はリーグ戦にフル出場し、アシストもVゴールも決めました。だけど、トルシエ監督はその年、僕を呼ぶことはありませんでした。
ところが明けた2002年、鹿児島県指宿市での合宿には多くの選手が集められて、僕にも声がかかりました。そしてそこから3月21日、大阪でのウクライナ戦と27日のアウェイでのポーランド戦に呼ばれ、やっとトルシエ監督の選択肢に僕の名前が入ったと思います。
1998年には目の前まで行っていたワールドカップを諦めたくなかったし、2002年ワールドカップまで1年のところで「あと1年もある」と考え方を変えて、Jリーグに集中できたのがよかったと思います。毎試合アシストとかゴールとか、結果を見える形で出して、「これでもか」という攻めの姿勢を持てたのがよかったのだと思います。
2002年ワールドカップ、グループリーグ第3戦のチュニジア戦で中田英寿さんのゴールをアシストできました。その話は、今もいろんなところで聞かれますね。印象に残るプレーができてよかったと思います。
1998年フランスで目の前のラインが超えられなかったけれど、4年間経って、やっと一歩前に進むことができました。実は1998年に韓国戦に出場して以来、1999年から2001年までずっと代表の試合のピッチは立てなかったんです。2002年になってやっと戻ってくることができた。1998年も「いきなり」でしたが、2002年も「いきなり」のドラマがありました。
ただ、2002年以降は、それまでより劇的だったかもしれません。2003年のことを考えるとよく今も現役が続けられていると思います。ここ数年はケガに悩まされ続けましたが、やっと状態もよくなり、今年はJFLのヴァンラーレ八戸に所属することになりました。プロになって18年、まだ僕はサッカーを楽しんでいます。そしてこれからもずっと楽しめると信じて、プレーを続けていきます。
市川大祐 プロフィール
清水エスパルスの下部組織から1998年にトップ昇格しJリーグデビュー。同年、岡田武史監督によって日本代表に選出され、17歳322日で日本代表として国際Aマッチデビュー。
2002年にはトルシエ監督が指揮するW杯日韓大会に出場。
2016年からはヴァンラーレ八戸に所属する。静岡県出身、1980年生まれ。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。