2006年、ドイツワールドカップ直前のメンバー発表でジェフユナイテッド市原(当時)からは巻誠一郎選手が選ばれた。その感想を求められたイビチャ・オシム監督は、一通りのコメントが終わった後、別の話を始める。
「まず、阿部(勇樹)が選ばれないことに対して、私はすごく残念です」
「ただ、1つ良かったことは、まだ彼には時間があるということです。だからこそ、ここに集まっている人たちに、逆に選ばれなかった選手たちのことを少し考えてもらいたいと思います」
そしてその年、オシム監督が日本代表を指揮するようになると、初戦のトリニダード・トバゴ戦こそ別大会の関係で招集できなかったが、その後はずっと阿部を招集し、守備ラインの中心に据えた。トレーニングでも阿部は他の選手にオシム監督の意図を伝える役割を担っていた。阿部がオシム監督にとって特別な選手なのは間違いなかったし、阿部のオシム監督に対する全幅の信頼も、いつも決して変わることはなかった。
メンバーを2段階で発表したり、数多くのビブスを使ってトレーニングを行ったり、あるいは独特の言葉回しで質問を煙に巻いたりと、オシム監督は日本サッカーの常識を覆し続けた。
そんな中で臨んだのが2007年アジアカップ。ベトナムでの戦いは灼熱との戦いだった。オシム監督が目指す「走る」サッカーは高温多湿の気候に対応できるか懸念されたが、順調に準決勝まで駒を進める。日本は2度先行されるが、2度ともその直後に追いついた。特に日本の2点目、巻のヘディングから阿部のボレーというゴールは「ビューティフル」ゴールだった。
だが、そこまで。結局日本は2-3と敗れてしまう。そして3位決定戦ではPK戦の末敗れ、4位に終わってしまった。だが、9月にオーストリーで開催された3大陸トーナメントでは見事に優勝を飾った。オシム監督はその年の10月に行われたエジプト戦でチーム作りが次の段階に進むと宣言。期待が高まる中、不幸が襲う。11月、オシム監督が脳梗塞で倒れてしまったのだ。
その後、オシム監督がピッチに戻ることはなかった。オシム監督と阿部がもう一度、指揮官とプレーヤーという立場で一緒に戦うことは見られなくなってしまった。だが、2一軒綱はきっとこれからも切れることはないだろう。
オシム監督への思いを、阿部にたっぷりと語ってもらった。
自分で魚を買ってさばくこともあったオシム監督
イビチャ・オシム監督、2007年にアジアカップでベトナムに行ったときは「フォー」を食べていらっしゃいましたね。おいしいって、いつも食べていました。監督はその土地のものを食べるんですよ。料理も好きだったので、日本では自分で魚を買ってさばいて食べていらっしゃいましたね。
オシム監督がジェフに来るまでも、5人の外国人監督が続いていました(ヤン・フェルシュライエン、ゲルト・エンゲルス、ニコラエ・ザムフィール、ズデンコ・ベルデニック、ジョゼフ・ベングロシュ)。どの監督もそれぞれの考え方がありましたし、過去の監督が来てなかったら次の監督は来なかったと思います。
ザムフィールさんもルーマニアではすごい方だと聞いていましたし、ズデンコさんもそうでした。ジェフにそれぞれの国のすごい人たちが来てくれているんだろうなというのは、そのころから感じるようになりましたけど。
そういう人たちが日本で監督をしてくれたおかげで、オシムさんも来てくれたのでしょう。それまでに来てくれた人たちがいたからこそ、オシムさんも興味を持っていただけたんじゃないかと思いますね。そんな監督たちを連れてきてくれたのが、ゼネラルマネージャーの祖母井秀隆さんでした。祖母井さんの存在がすごく大きかったし、それを支えてくれたのが2月2日にお亡くなりになった岡健太郎元社長でしたね。オシム監督、祖母井GM、岡社長のトライアングルがあったから、あのときのジェフは成り立っていたと思います。
オシム監督の特長は……、そうですね、そのクラブに、そして最終的には日本にどんなサッカーが合うかということを考えられていたということだと思います。そういう考えを持って日本代表の監督になったと思いますね。
ジェフに来たときはジェフというチームの現状を考えた上で、どういうことが必要で、何が足りないかというのを、来る前からたぶん知っていたんじゃないかと思います。そういう情報をつかむところや、チームに何が欠けていて、何が必要かと判断するところが本当に早かったですね。
「走り」が足りないということで走るメニューが多かったと思います。そして、「これがダメだ」「これが足りないんだ」ということをハッキリいう監督でした。僕自身にとっては、今まで狭い範囲しか見えていなかったサッカーというスポーツの、見える範囲、世界を広げていただいたと思います。
練習は、試合形式が多かったですね。一週間試合がなければ、近くの大学生のチームなどにすごく協力していただいて、必ず全員が出場できるだけの数の練習ゲームを入れてました。11人対11人だけじゃないんです。相手が11人で、こっちが8人や9人なんていう変則的なゲームもやっていました。今考えると、そういう練習をやるチームはあんまりないと思います。面白いことを、やらせてもらっていたんだなぁと。
オシム監督の練習といえばビブスの色が多いという特徴がありましたけど、それ以外でもいろんな刺激がありましたね。あまり同じ練習をやらない。ちょっと条件やシチュエーションを変えたりしていました。
次の試合に向けて必要なことをトレーニングでやっていたと思いますが、それだけではなくて、僕たちの足りない部分が当たり前に出来るようになるために、反復練習も多かったと思います。反復と言っても、シチュエーションや、いろんなルール――たとえばパスを出して動かなければいけないとか、リターンパスなしだとか――が加わるんです。
いろんな色があるビブスにしても、パスを出す順番が決まっている練習もあったし、どこに動かなければいけないということもありました。それが、新しいことだらけだったので、最初は付いていくので精一杯でしたね。みんなも頭が疲れちゃっていました。
オシム監督は契約が書面じゃなくて口約束だという噂がありました。だからシーズンが終わって渡欧すると、本当に帰ってくるのかわからない。そんないやな話がチーム内で一度流れたりもしました。そのとき、監督の続投が決まってから自分も契約したいという気持ちになりました。自分が先にサインしちゃって、監督が戻ってこなかったらいやだなって。だから監督がまた指揮を執ると決まってから自分もサインしたのを覚えてますよ。
「またあの練習がしたい」が代表へのモチベーションに
2006年ワールドカップのメンバーに選ばれなかったとき、オシム監督が「入った選手もいるけど入らなかった選手もいるから」というコメントをしてくれていたというのは覚えています。そんなことを言ってくれて、そういうことを言えて、そしていろんなことが見えている監督と一緒にやれてよかったな、と改めて思いましたね。
オシム監督の日本代表に初めて呼ばれたのは、監督就任から2試合目となる、新潟でのイエメン戦のときですね。ジェフから呼ばれた選手が何人かいて、他の選手から練習のポイントを質問されていました。「この練習のときはこんな感じですよ」なんて話をしながらトレーニングしてたのを覚えてます。いつもジェフでやっていた練習だったので。
僕が守備の中心を任されていたかどうかはわからないし、そんなワケないじゃないですか(笑)。自分のチームではボランチでしたけど、代表に呼ばれたときはCBでした。ジェフのときもいろんなポジションをやって来たので、後ろのポジションでやることがあるんだろうな、というぐらいしかなかったです。
僕が使ってもらえたのは、ジェフでも代表でもいろんなポジションをやりましたけど、真ん中でやろうがサイドバックでやろうが、僕自身が「できること」と「できないこと」がたぶん整理できていたからだろうと思います。
たとえばサイドバックをやっても、今の長友佑都選手みたいにできるかって言うと、できない。タイプが違います。僕は僕のやり方でやれればいいんじゃないかという考えで、いろんなポジションでプレーしていたから。それがよかったんでしょうね。誰かの真似じゃなくて。
それが別のポジションでプレーすると、「誰かの代役」って書かれちゃうじゃないですか。別に代役じゃないし、自分は自分。自分が「代役」と書かれたらそう思ってたし、他の人がそう書かれたら「関係ないじゃん、自分らしくやればいいじゃん」って話をしていました。そして僕は「自分が出来ることをしっかりやっていた」から、オシム監督は違うポジションでも使ってくれたのかなぁと考えています。
オシム監督にはジェフで素晴らしい時間を一緒に過ごさせてもらいました。でも代表は別物だから呼ばれるとは限らない。オシム監督とまだまだ一緒にやりたいという気持ちがあったから、選ばれるためにジェフで頑張らなければいけないという思いがありましたね。またあの練習したいなって。
もちろん、オシムさんが辞めた後も、息子のアマル・オシムコーチが昇格して監督になっていたので、練習は変わらなかったんです。でもイビチャ・オシム監督ともう一回一緒にやりたいという思いが強かった。だから自分が代表に入るためには何をしなければいけないかって考えていました。
監督は選手を個人的に呼ぶことはほとんどなかったですね。試合前に、自分より上の年代の人は呼ばれて話をしていたかもしれません。でも、2006年10月、アウェイのインド戦の前に初めて呼ばれました。そのとき言われたのは、「自信持ってやれ」って。その言葉はそれからも何度か言われたかな。2010年、南アフリカのワールドカップ前にもね、手紙で。
2007年のアジアカップでは個人的にも悔しい思いをしました……。本当に、いろんな意味で勉強になった大会だったかなと思います。でも、暑いから走れないという感じは……そこまで感じなかったかな。ピッチもそんなに悪くなかったですし、そんな気にはならなかったです。
その準決勝のサウジアラビア戦はゴールを決めたけど、最終ラインに入っていて失点して2-3で負けてしまった。優勝したら南アフリカワールドカップの前に開催されるコンフェデレーションズカップに出られたし、3位までに入ると次のアジアカップ予選に出なくていいというのがあったのに……。でもこのときに、責任の重さというか、局面も含めて、Jリーグでは感じることが出来ない、プレッシャーだったり、責任の重さを感じた試合でした。
監督が倒れた後、面会で「すごく緊張し汗が流れた」
監督が倒れたというのは自宅で聞きました。電話で教えてもらったかな。ショック……ですね。やっぱり。その後、なかなか情報が入ってこないという状況でした。それで無事に退院、回復されたあとに、顔を見に行ったんです。
そのときもサッカーの話でした。この相手はどうだった、とか、このスピードは違っただろうとか。実際に話をして、ああ、こんな状況でも自分を見てくれていたんだと思いましたね。でも、何年も一緒にいて、一緒に戦ってきたんですけど、そのときだけはすごく緊張して、汗が流れたことを覚えています。
やっぱり常にサッカーを見ているし、いろんなアイデアだったり考え方がパッと浮かぶんでしょうね。もう少し長くできたらよかった。ホントすごい人が来てくれたんだと思います。
練習は確かに1年目はきつかったし、休みがなかった。それで周りの選手から監督に訴えてくれと言われて「休みをください」って言いに行ったんですよ。そうしたら逆に説教を食らいました(苦笑)。でもそのとき、自分のためになるような話もしてくれたし、説教はされたけど、最初にサッカーの見方を変えさせられるような話をしてくれましたね。それで結果が出るようになると楽しいし、2年目、3年目は身体が慣れて、そんなにきつくならなくなった。戦えるようになってきたんじゃないかなと思いながらシーズンを過ごしていましたよ。
次にオシム監督に会ったときは……間違いなくサッカーの話でしょうね。監督は、絶対に日本の情報を見てると思ってます。みんなががんばって走ってる姿を。……自分はまだまだやらなければいけないと思ってるし、……もっと、……もっと走って。そしてチームが勝って……いい結果を出して、いいニュースを届けたいと今も思ってるんですよ。
もし今、僕が監督に何を言われるかっていえば……「走れ」。……それしかないでしょう。言われるでしょうね、「もっと走れ」と。……間違いなく。……それだけは、言われる。やっぱりチームのために戦わなきゃいけないし、それが必要なことだし……「走れ」って間違いなく言われるでしょうね。
阿部勇樹 プロフィール
ジェフ市原の下部組織で育ち、1998年、16歳の若さでJリーグデビュー。ポジションはミッドフィールダー/ディフェンダー。
アテネ五輪に出場後、日本代表として2010年南アフリカW杯に出場。
2012年より浦和レッズに所属する。千葉県出身、1981年生まれ。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。
ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/