2007年9月、たまたま東京ヴェルディ1969の練習取材に行った。
2006年にJ2降格してしまった名門を救うべく、火中の栗を拾ったのはクラブOBのラモス瑠偉監督だった。ところがラモス体制の2年目は序盤戦で大きく躓いていてしまう。
7節から13節まで7連敗で、昇格を期待されていたチームは13チーム中9位と沈んでしまった。監督解任かと騒がれたが、クラブは現体制を維持。するとチームは息を吹き返す。
14節、昇格を争う京都パープルサンガとの直接対決で4-1と大勝を収めると、その後は36試合で4敗したのみ。そして最終節でついにJ1への自動昇格を勝ち取った。
取材に訪れた9月15日はアビスパ福岡戦の前日。だがまだ4位で昇格圏外のチームに来る記者は少なく、ラモス監督が引き上げてきたときには他の記者の姿はもう消えていた。監督はいつものように、にこやかに歩み寄ってきて、前節の問題点や福岡対策についてストレートな話をしてくれた。
サッカーの話が一通り終わったところで、監督はほとんど表情を変えず「今日、お母さんが亡くなった」とぼそりと言った。
そして「この話は誰にもしていないから、誰にも言わないでくれ」と続ける。女手1つで5人の兄弟を育てた母親を、ことさら大切にするラモス監督の姿を見ていたため、ブラジルに行かなくていいのか、行ったほうがいい、と迫ったが、監督は「いや、行かない」と言う。
少しの沈黙の後、監督は「また練習取材においで」とゆっくり監督室に消えていった。
翌日、クラブから監督の母親逝去のリリースが出た。記者会見でも質問が飛んだようだ。だがあの日、ラモス監督から「誰にも言わないでくれ」と言われたから、この件について書くのは今まで控えてきた。
月日が経ち、今回あの日のことを質問していいかと打診したら、やっと了承が取れた。ラモス監督は静かな口調で、故マリア・ラモスさんへの思いを語り続けた。
突然の訃報、でもブラジルには帰らなかった
お母さんが亡くなったことは、当日誰にも言ってなかったよ。誰も知らなかった。その日の最後まで。翌日、クラブが発表したんです。誰かがどこかで聞いたみたいで、結局リリースが出ることになった。
選手たちに言わなかったのは、次の試合に集中させるためですよ。選手たちは7連敗の後に1つになって戦って一生懸命やっているところだった。4連勝していて、残り12試合だけど、まだ昇格決まってないし、余裕がない。僕と付き合いが長い選手、僕がお母さんを大事にしていたことを知っている選手、その選手たちが気を遣ったらイヤだと思って言わなかったよ。ただ、どっかでばれた。
シーズン中だからブラジルには戻らないと決めていた。ブラジルは遠いし、選手たちを置いてブラジルには帰れない。ブラジルにお金だけ送って「いい葬式つくってあげて、見送ってあげて。12月に行きます。お墓参りに行きます。報告に行きます。昇格を知らせに行きます」。そう言って電話を切った。
お母さんが住んでいるのが大阪だったら行ったかもしれない。でも一度行ってすぐ帰ってきたよ。もし亡くなったのが試合の前の日だったら、僕は大阪でも帰らない。行かない。逆に帰ったら僕は怒られる。お母さんに。
名波浩選手(2007年当時東京ヴェルディ所属)のお母さんが亡くなったとき(2007年1月20日)の姿見ていたしね。彼も葬式に出て、そのあと練習に笑顔で戻ってきてみんなを引っ張ってくれた。そういうのでプロ意識を見たよ。さすがだったね。
2007年だけ、お母さんと会ってなかった。いつもは1年に2回は会っていたのにね。お母さんが日本に来て3カ月滞在して、僕がブラジルに行って2週間過ごしてという感じだった。
でもその年だけは僕、ブラジルに帰らなくて、お母さんも来なかった。お母さんは「来たい」と言ったけれど、ちょうど夏だから「やめたほうがいい」ってとめたんですよ。するとしばらくしてお母さんの調子が悪くなった。
その2、3カ月前も病院の先生に電話して、「必ず昇格するから、昇格記念パーティーに日本に連れて行きたい」って話したんですよ。そうしたら「全然大丈夫。間に合う。安心して」って言われていたのに。それが悪くなって2、3週間でいきなり亡くなっちゃった。あっと言う間でしたね。
ちょうど1週間ぐらい連絡を取ってなかったら、試合の前の日に亡くなったんですよ。もうそろそろ勝てば昇格見えてくるのだろうから電話しようかなと思ったら、夜中に電話かかってきて、「今日亡くなったよ」って。心臓発作で。
家の柱だった人間だからね。みんながバラバラにならないようにしてくれていた。うちはみんな個性が強いからだけど、それがお母さんを中心にまとまっていた。
辛かったですよ。僕も泣いたけど、3日ぐらい初音ちゃん(故・元夫人)が泣いていましたね。私よりキテたかも。お母さんとは最初から仲良かったし、ブラジルで婚約したときからママがすごくかわいがっていた。本当に自分の娘のように。
「自分のためだったら残っていた」ラモス来日の経緯
お母さんは僕たちのすべてだった。お父さんは僕が9歳のときに亡くなって、そのあと女手1人で子ども5人守って育ててくれたから。僕はお母さんを助けてあげようって日本に来たからね。自分のためだったらブラジルに残っていたと思う。(所属していた)サージFCで、自分を使わなかった監督が解任されたし、2人のライバルは2人とも移籍していたから。
周りの人から、マスコミの人も、サポーターも「ラモスの出番だ」って。でも、ちょっとしたトラブルもあった。それで僕が「もうサッカーやめます」って言ったからみんなビックリしていた。
監督が解任される前に、他のクラブからも移籍話が来ていたけど、そのときはお母さんの側を離れちゃダメだと思って断った。そうしたらクラブの副社長が「いいよ、お前は好き勝手やれ」って突き放してきた。「何だ、コノヤロウ」と思っていたら、そこにタイミング良くジョージ与那城さんが来て、読売クラブとの契約の話をしてくれた。そのときうちのお母さんはお金ですごく困っていたから、「すぐ行く」って。
それでサッカーをやめたことにして、日本に来たんですよ。1年目は帰らなかった。2年目にシャツとかシューズとかメーカーからもらって仲間に持ってったんです。すると副社長がやって来て「お前、どこ行っていた?」と言うから、「僕日本に行きました」って返事した。すると「日本? なんだよそれ。お前まだ契約残っているぞ」って突っかかってきた。
だから「いや、僕サッカーやめました」って言ってみた。そして「副社長にそう言ってもらえるのならプレーしたいのでお願いします」って続けたら、相手は困って「いらない」って感じになった。で、日本に戻ったんですよ。
だけどずっと後でバレましたね。僕の知り合いがサージFCに入って、「ラモスが暴れているぜ。活躍して、香港のスカウトやフランスの2部リーグのスカウトも来ているらしいぜ」って言ったらしい。それにジノ・サニ監督が読売クラブの監督に就任したとき、みんながどんなクラブなんだろうって調べたら、「日本のクラブで、ラモスが活躍している」って聞いたんだって。そのときはもう後の祭ですよ。
札幌の雪祭りで偶然の親孝行
お母さんが日本に初めて来たときに、日本のことを一発で気に入ってくれた。ちょうど春で、「もうできるだけ春は日本に来たい」って言っていた。
でもテレビで札幌の雪祭り見て、「一回だけ行きたい」って言い出した。でも、僕は「行かない。行かない。寒いところムリ。あれはテレビで見るもんだ」ってなかなか連れて行かなかった。
それでもお母さんから「行きたい」って毎年言われて、とうという根負けして1994年に連れてった。うちのお母さんは寒いほうが強い。リオの女なんだけど、珍しいことに暑いのがダメで寒いほうが好き。ただ冷たい風は苦手だから、風が吹いたら出かけられないと思っていたら、その日の札幌は風がなかった。
お母さん、喜んで、喜んで。それである雪像を見つけたら、お母さんは鳥肌が立ったみたいで、急に「あー! あー!」って叫んでいた。うちの家族の中では上のお姉さんとお母さんだけが声が小さい。あとはみんなでかいんだけど。そのお母さんが大きな声を出したから、てっきり転んだのかと思っちゃった。慌ててお母さんの顔を見ると、笑っているんですよ。
そこには僕の大きな顔が雪で作ってあった。僕も知らなかったよ。ホント、偶然。
お母さんは自分でも大声出して恥ずかしかったみたいだけど、それでも構わず叫んでいた。「あー、あー、あー!」って。それで周りにラモスだってばれちゃった。帽子被ったり髪を後ろで束ねて変装していたのにね。で、もうあとはずっと写真大会ですよ。……ただ、ちょっとは親孝行になったみたいだったね。
人のためにサッカーをすれば、あと一歩前へ出られる
お母さんの料理は全部覚えいてますよ。天才でしたよ、天才。
一番好きだったのは、肉を薄く切って、その上にポテトを薄く切ったのを乗せて、オーブンで焼く料理。お母さんがつくったメニュー。本当に美味しい。あとはマヨネーズのサラダ。簡単だけど、教えてもうちのお姉さんはできない。初音ちゃんは似た味にできいてたのに。お母さんが毎日お姉さんに教えていても、一回教えただけでも初音のほうがうまかった。お姉さんも初音になんでそんなできるのって聞いていた。
あとは豆を煮込んで、チーズの粉を入れて固くしたなかに、辛いソーセージや卵を入れる料理も半端じゃなかったね。とってもうまいよ。
小さいころは豆料理のフェイジョンがメインですよ。うちは貧乏だったから。肉は、小さな肉を月1回か2回、日曜日に食べられた。土曜日はサラダとスパゲッティ。昼と夜と同じ。平日は、サラダとか辛いソーセージ。あとは卵とフェイジョンと白いご飯。他にはシチューみたいな、ポテト、ニンジンと本当に安い肉と煮込んだ料理。圧力なべでつくっていた。とにかく何をつくってもお母さんの腕はすごかった。
だけどお母さんがすごいのは料理だけじゃなかった。友だちが家に来てみんなで食事をしようと言っても、あまり食べ物はない。だからみんなで分けるんです。自分の分を半分他人にあげる人はたくさん見た。だけどお母さんは自分のほうが少なくなるように分けるんです。シチューとご飯、バナナ1本がしかなかったら、シチューとご飯を半分ずつにして、相手にバナナをあげる。それはすごいと思った。すごいお母さんだった。だからお母さんが亡くなったとき、本当にすごい人がいなくなったなって思いましたよ。
2007年のシーズン、最後は16試合負けなしで昇格できた。でも毎試合大変。すごく緊張していた。本当にしんどかったですよ。でもどの苦しい試合のときにも、お母さんがいてくれたんだと思っていますよ。僕はそういうのを信じている。
僕は人間の人生って、親がまいた種で今があると思う。だから「もうちょっと自分のためじゃなくて人のためにやろうよ」って言いたいよ。みんな親孝行してほしい。サッカーしていてもそう。親とか家族とか、応援してくれている人とか、チャンスを与えてくれた人とか、そんな人たちのことを考えたら頑張れる。自分のためじゃなくて、そういう人のためなら頑張れるよ。この試合をあなたに捧げるとか、そう思ったらもう一歩走れるって。力出せるって。前に出られるって。
僕のお母さんは、マリア様ですよ。あの人は間違いなく、今神様の横に座っていると思います。
ラモス瑠偉 プロフィール
プロサッカー指導者、サッカー元日本代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
ブラジルのサージFCを経て1977年、読売クラブへ加入。1990年に日本へ帰化し、日本代表としてドーハの悲劇を経験。
現役引退後、2006年~2007年は東京ヴェルディの監督、2014年からはFC岐阜の監督を務める。
ブラジル リオデジャネイロ出身、1957年生まれ。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。
ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/