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「駒野なんて大したことはない」から6年…駒野友一が振り返るケガ、PK失敗、落選

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駒野友一は立ち止まらなかった。

 

それまでは、どんな状況の時もキチンと立ち止まって、記者たちの質問に答え続けていた。質問がなくなるのを待って、チョコンとお辞儀をしてミックスゾーンを離れるのが常だった。

 

だが2010年6月29日だけは違った。ミックスゾーンに現れた駒野は決して顔を上げることなく、誰から話しかけられても一言も発せずに、トボトボとバスに向かった。誰も駒野を責めようとはしていなかったと思う。なぜなら駒野がPKを蹴るのは当然だったからだ。

 

南アフリカワールドカップ、ベスト16のパラグアイ戦は0-0のまま延長戦でも決着がつかなかった。日本が初めてベスト8に進出できるかどうかはPK戦に委ねられる。

 

後攻となった日本の3人目に登場したのが駒野だった。イビチャ・オシム監督時代、PKの練習で一度も外さなかった選手が3人いた。中村俊輔、遠藤保仁、そして駒野だったのだ。

 

それまで両チームとも誰も外していなかった中で、駒野が蹴ったボールはクロスバーに当たって外れる。駒野は思わず頭を抱え、チームメイトから慰められたまま、残りのPK戦の行方を見守ることになった。だが、その後も誰も失敗せず、パラグアイの5人目が決めたところで日本の敗退が決まった――。

 

そのときインターネットでは、「駒野が悪い」という心ない投稿が溢れた。しかもその投稿を使って、何をしても「駒野が悪い」というオチにしてしまう者たちまで現れた。

 

しかし、駒野は挫けず復活する。

 

その後、駒野はアルベルト・ザッケローニ監督の下でも代表に呼ばれ続けた。このままなら、きっと挽回の日がやってくる。2014年ブラジルワールドカップ前年、新戦力発掘の色合いが強かった東アジアカップに駒野は招集される。韓国に連れて行かれた中では1人だけ代表出場試合数がずば抜けて多く、経験値をみんなに分け与える役だった。

 

それだけ頼りにされていた駒野だったが、ブラジルワールドカップのメンバー発表の際、名前が呼ばれることはなかった……。

 

PKは入れる自信があった…でも、そういう運命です

2013年、それまでずっと日本代表のメンバーには入っていたのが、6月4日、ワールドカップ出場を決めたオーストラリア戦でベンチ外になってしまいました。5日からはアジアカップ予選のアウェイのイラク戦、それからコンフェデレーションズカップに出発することになっていたのですが、僕はオーストラリア戦で終わり。「帰っていい」と言われて別行動になったんです。

 

正直「マジで?」と思いましたね。その後、7月の東アジアカップには呼ばれたけれど、その後は呼ばれなくなって、「ワールドカップ行きは難しくなった」と感じていました。結局、予備登録選手になった。ブラジルに行けなかったのが、自分の中では一番悔しかったです。なぜだったんでしょうね。ザッケローニ監督に聞いてみたかったですね。

 

もちろん2010年南アフリカワールドカップのときのPK失敗も、辛い思い出でした…。

 

自分でも…、自分がPKを外したという記憶は…全然ありませんでした…。だから大丈夫だろうというか…、入れる自信が…ありました。…でも、そういう運命です。…仕方ないです。…ミックスゾーンでは立ち止まれなかったですね…。話せないと思っていましたし……。

 

……日本に帰ってきて休みをもらったので、少し…、そのとき妻が気を遣ってくれて、「できるだけ人の目を気にせず過ごせるところに行こう」と言ってくれて…、旅行に行きました……。それで子どもと一緒に過ごしていたんです…。

 

ただね、そこで子どもの笑顔ってハッキリしているので…、子どもと一緒にいると、だんだん自分も笑顔になってきて…、それで次第に心の底から笑えるようになってきました…。それから日が経つにつれて……、「やっぱりボールを蹴りたいな」って。

 

PKは外してしまいましたけれど、自分自身で今後どうすればいいのかと考えたとき…、もう一度ピッチに立って、いいプレーをしていくことが大事だと思えたんです。そういう気持になれて、やっと切り替えることができました。

 

でも、あのPK失敗よりも辛いことが僕にはありました。

 

見ていた人が「靱帯が切れた音がした」と言うほどの大ケガ

サンフレッチェ広島にいた2003年8月16日の横浜FC戦で、左膝の前十字靱帯(じんたい)を断裂してしまったんです。初めての大怪我だったので。入院中には別の病気にもなってしまいました。

 

試合中に左足を上げて地面に下ろしたときにヒザが内側に入ってしまったんです。自滅ですね。倒れ込んで、その時点では一度外に出て、僕自身はプレーできると思っていたのですが、ドクターがバツを出していて、もう代わる選手もピッチ横にいて。

 

「え? 代わるんだ」と思いました。痛みは感じていなかったんです。だから(小笠原)満男さんが、もう一度ピッチに入ったじゃないですか(2008年9月21日、鹿島の小笠原満男が左膝半月板損傷と前十字靱帯損傷で全治6カ月の大怪我を負いながら、その後13分間プレーし続けた)。その気持ちがわかりました。ああいう感じで、まだできると思っていたので。

 

そのときはすぐロッカーに戻ってアイシングをしたのですが、ドクターとトレーナーはちゃんとした症状をいってくれなかったんです。詳しい病名がわかったのは翌々日の病院に行ったときですね。試合が土曜だったので月曜まで待たなければいけませんでした。

 

ですが、スタンドで見ていた人は「(前十字靱帯が)切れた音が聞こえた」と言っていましたし、過去に前十字靱帯を損傷していた他の選手は「あの膝の曲がり方は切ったのだろう」と言ってました。僕自身は音が聞こなかったし、プレーできるという感覚を持っていたのですが、経験者の人たちの話を聞いて暗い気持ちにはなっていました。

 

経験者によると、病院では膝に注射針を刺して溜まっている液をぬくということでした。そしてその抜いた液体が水のようだったら軽傷で、血が混じっていたら靱帯が切れているという説明をされましたね。

 

病院に行って注射針を膝に刺し、ドキドキしながら見ていたのですが、抜いた瞬間赤い色が見えたので「あぁ」と絶望感を感じました。帰り道の車の中では頭の中が真っ白。そこまで一度も大きなケガが無かったんですよ。

 

前十字靱帯がどういうものかということは調べていました。全治に8カ月ぐらいはかかるとわかっていたので、「2004年アテネオリンピック(8月11日~8月28日)に間に合うかどうかギリギリだ」と思ったことを覚えています。焦りはありました。だけど、オリンピックに間に合うようにやっていこうとトレーナーに言われたので、あとは信じて治療するだけです。

 

ただ、気持ちはなかなか切り替えられなかったですね。早く手術を受けたくても、膝の腫れが引かないと受けられない。腫れが引くまでに1カ月かかりました。

 

その1カ月の間、走れるんです。まっすぐなら大丈夫。ターンや急なストップはできないけれど、ピッチの周りを走ったりできるんです。しかもかなりのスピードで走れる。

 

みんなが練習している横をひたすら走ったのですが、「もしかしたら、プレーできるんじゃないかな。できるな、これなら」と思いながら走ってました。ピッチの外周を走ってますけれど、ピッチの中ではみんなが練習しているし、そういうのを見るとストレスも溜まって……自分の中でいらついてました。

 

自滅だったので怒りの向け先もない。1カ月間は、本当に手術するのかなと思って過ごしていました。

 

「命の危機すらある」…辛い時期を支えた家族

ところが手術すると痛くて痛くて。左足は動かせないように固定しているので、どんどん自分の足が細くなりました。筋肉が落ちるのはわかっていたのですが、「あぁ、これが自分の足なんだ」と最初は悲しくなりましたね。膝もリハビリで曲げたり伸ばしたりするんですけれど、「こんなに曲がらなかったり伸びなかったりするんだ」って絶望感に近いものもあって。

 

それでも本当は2週間ぐらいで退院する予定でした。ところがある日、脇腹がすごく痛くなったのです。運悪くその日は日曜で、月曜まで待ってお医者さんに見てもらったのですが、これが俗にエコノミー症候群と言われる、静脈血栓塞栓症でした。

 

足のふくらはぎの中で血が固まった血栓が作られ、それが脇腹に流れていって詰まりかけていました。もしも血栓が心臓まで行ってしまったら全身に廻ってしまいます。そうすると命の危機すらあると言われました。

 

だから小さな傘みたいな器具を血管の中に入れて血栓が流れないようにブロックして、血栓を溶かす薬剤を血液内に流すんです。

 

その薬剤を入れるのが足の甲からなんですけれど、足を動かしていないし、ずっと寝た状態なので甲の血管が浮き出てこないんですよ。だいたい足から注射するだけでも痛いのに、何度も針を入れ直したりするから痛くて痛くて、耐えられない。耐えられないけれどやるしかない。憂鬱でした。

 

結局薬剤は5回ほど入れたと思います。そして入院は1カ月に延びました。

 

その辛い時期を乗り越えられたのは、当時付き合っていた女性のおかげでした。病院食って味が薄くて、あまり食欲が進まなかったのです。それを知った彼女が毎日弁当を作って持ってきてくれました。魚や肉やいろいろなバリエーションを加えて。それが支えでしたね。その後、その彼女と結婚したのですが。

 

退院後はトレーナーのメニューどおりにリハビリをこなし、復帰できたと思います。8カ月で足の痛みは取れました。ケガをしたのが前十字靱帯だけだったのが良かったのかもしれません。半月板を負傷していたらもっとかかったでしょうから。あとは、治療明けがオフシーズンだったので、そこから体を作っていけたのもよかったと思います。復帰は2004年4月29日、ヤマザキナビスコカップの横浜F・マリノス戦でした。

 

入院中は、退院したら焼き肉を食べたいと思っていました。カルビは30歳を越えたころから脂が苦手になったから、今はロースとか、ハラミが好みです。塩とタレなら僕はタレ派。野菜はしっかりたっぷり摂るんですけれど、肉を食べるときは肉だけでパッと食べちゃいます。ただ、量はあまり食べないですよ。お腹が減っているときは一気に食べちゃいますが、すぐにお腹いっぱいになります。広島の駅の近くに「きむらや」という焼き肉屋さんがあるんですよ。あそこの肉はおいしかったなぁ。

 

この年齢までプレーできているのは、ありがたいと思います。意外とケガが多いんですけれどね(笑)。とにかく、妻と子どもに感謝です。

 

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エピローグ

いつもニコニコと笑顔を崩さないまま話をする駒野だが、この日の話では顔を曇らせたり、言葉を慎重に選んでいる場面があった。

 

駒野に、ワールドカップでのPK失敗の後のインターネットでの話題を見たか聞いたところ、本人は見ていないという。だが、家族や知人が見て、それとなく教えてくれたということだった。

 

「それを聞いてどう思いましたか?」と続けると、駒野は顔を曇らせ「みなさんに大変申し訳ないと感じていました」と言う。

 

だが、PK失敗後の「駒野が悪い」という投稿が出ると、すぐに「駒野なんて大したことはない」という反語的に駒野を擁護する投稿も続いた。そしてその声は大きくなっていった。

 

駒野に「擁護する声のほうが多かったと思いますよ」と伝えたとき、駒野はパッと表情を明るくした。きっと本人はそんな声が上がっていたのを知らなかったのだと思う。

 

今年35歳になる駒野には、何度も引退を決意させたかもしれないような大波が襲ってきていた。それでも、駒野は何度も試練に立ち向かい、見事に乗り切ってきた。大ベテランの領域に入ってきたというのに、今年も新たなチャレンジとして青赤のユニフォームに身を包む。

 

アジアチャンピオンズリーグ予備予選、チョンブリFC戦ではフル出場。試合後は「勝ったことが一番良かったです」と謙遜しながら振り返ったが、何度もオーバーラップを見せ、アシストも記録した。歴代代表でもみんなから愛された明るい性格で、すでにチームにも馴染んでいるようだ。

 

まだまだ駒野友一は立ち止まらない。

 

駒野友一 プロフィール

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プロサッカー選手。ポジションはサイドバック。

サンフレッチェ広島ユースを経て2000年、サンフレッチェ広島に入団。2008年からはジュビロ磐田、2016年からはFC東京でプレー。

2004年アテネ五輪、2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯出場。

和歌山県出身、1981年生まれ。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/


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