生産者の顔が見える背景のある素材にこだわり、足しげく通う人も多い人気の鰻専門店です。
看板商品である「うな重」はいわゆる関東風。
関西風と異なり「蒸し」を施した蒲焼きのため、口当たりが非常に柔らかいんです。また指名買いした鰻のみを潜らせてきたコク深いタレは強い主張をせずに、鰻本来の脂の甘みを引き出しています。
夜のコース料理でのみ食べることができる鰻の刺身も必見。
塩あるいは魚醤、お好みで自家製のマスタードと薬味を合わせて食べるのが「はし本」流。
川魚は独特の臭みがあるものなのですが、この鰻の刺身は非常に繊細な風味で、噛めば噛むほど鰻の甘みが口の中に広がります。
実はこの鰻の刺身、非常に手間がかかるもの。本来、鰻の血には強い毒が含まれているため、半日ほど血抜きをして、5日間脱水したものを提供しています。新鮮な鰻だと、身の締まりが良すぎて切ることができないため、数日間寝かせたものを素造りにするのだとか。
この他、同店では長野・佐久の名物である鯉料理や、すっぽん・どじょう・ナマズなど、季節に応じた川魚を楽しめます。
またお酒の種類も豊富。唎酒師(ききさけし)の資格を持つ店主の橋本さんが選んだ全国各地の日本酒に加え、ワイン・焼酎など料理に合う酒がよりどりみどり。
そんな絶品料理を求める人で連日賑わう「鰻 はし本」ですが、意外なことに数年前までは閉店寸前まで追い込まれていたそうです。
「一歩間違えば、店もなかっただろうし、僕自身も今頃無職だったと思います。常に惰性で仕事をしていたから」
店主の橋本正平さんは自嘲気味にそう話します。
閑古鳥の鳴く店から人気店への変貌。自身の変革。そして、近年収穫量が減っている鰻の資源問題。
大きな動きの中を泳ぎ続ける老舗の4代目にご自身を取り巻く様々な変化についてお聞きしました。
「土用の丑の日にお店は開けない」という考え方
──鰻といえば、夏のイメージです。2018年は土用の丑の日が7月20日、8月1日と2度あると言われていますね。
うちは土用の丑の日は休みにしているんですよ。確かに一年で一番売上が伸びる日なんですけど、意味ないなと思って。
──意味がない...とはどういうことでしょう?
冷静に考えて、丑の日前後だけで日本における鰻の年間消費量の3割近くを占めている*1と言われています。これって結構おかしなことですよね。
──確かに、消費が極端に偏っていますよね。
丑の日に店を開けると忙しくなりすぎて、提供するもののクオリティが担保できなくなってしまうんです。だから、うちは夏はそんなに売らなくていいから、違うシーズンに来てもらえるようなお店にしようと思っています。
例えば、鰻って一年を通して、味が変わるんですよ。そういうことを知ってもらう方が本当はいいと思うんですよね。
──鰻は季節によって味が変わるんですか?
そうなんです。たとえば、夏に出る鰻を「新子(しんこ)」と呼ぶんですけど、鰻が好きな人じゃなくても食べやすい。癖がなくて、口当たりが軽くて、脂もある。
逆に冬を越すと、鰻もどんどん大人になっていくので、脂の質も変わってくる。よく「味が乗ってくる」という表現をするんですけど、本来はそういう変化を年間を通して楽しめる食材なんですよね。
数年後には鰻の流通量が20%以下に?
──丑の日にこだわらない鰻の楽しみ方もあると。
僕も子供の頃から鰻屋なので、「鰻は夏に食べるもの」という文化に対しての思い入れは人一倍あります。だけど現状の鰻を取り巻く問題を考えると、今はそうじゃなくていいのかなと。
四季を通して、消費が分散されることは資源的にも流通的にも大きな意味があると思います。
──現状は鰻に関する資源問題が取りざたされていますよね。
鰻の絶滅問題は、平成25年の大不漁の年に端を発しています。
元々漁獲量が減ってきていたのですが、この年に環境省がニホンウナギをレッドリスト(絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)に追加したことで、問題としてはっきり認識されるようになりました。
──ニホンウナギとは、我々が食べている鰻のことですね。しかし、養殖のものなら問題ないのではないでしょうか?
鰻にはまだわからないことが多く、卵から生み出す完全養殖が一般的に普及していないんです。そのため鰻の養殖は天然の稚魚を捕獲して育てています。
──養殖の鰻も資源的な問題に関わってくるということですね。
はい。そのため水産庁は平成26年の漁獲量を基準に、養殖用の鰻の池入れ(稚魚を捕獲する)量の年間上限枠を設定しようとしていました。
そうしたら、平成26年がすごく豊漁の年だったんです。そこの漁獲高を基準に設定したので、平成26年以降の年が実質取り放題みたいになっているんですよね。
──取り放題とはどういうことでしょう?
現状は池入れ上限が21.7トンに設定されているのですが、過去10年遡ってもそれ以上採れることの方が少ないんです。だから、鰻を専門に扱う中央大学の海部教授は「池入れ枠を適切なものにしよう」と主張していて、僕もその通りだと思っています。
──上限が意味をなしていないと。
資源管理をするには、まずこの辺りをきちんと設定しなければならないわけです。
このままだと、早くとも来年にはワシントン条約でニホンウナギが取引規制の対象となるんですね。そうなると、規制が実行される数年後には今の流通量の20%以下になると言われています。
流通量が減ってしまえば、価格も高くなるので、普通の人が食べられるようなものではなくなってしまいます。
──来年!? もうすぐじゃないですか。
だから僕は今すぐにでも、専門店や加工品生産、養鰻(ようまん)場というそれぞれの立場を超越して、資源保護に動くべきだと思っています。
鰻はあらゆる部分においてまだわからないことも多いですけど、きちんと科学的な検証をして、会議などで話し合う。そして具体的な取り決めをして、実行していく段階に入っていると思います。
生産者とのつながりが資源問題の一助になる
──そうした場は実際に設けられているのでしょうか。
2018年の6月に第一回「うなぎの未来の相談会」という会議を行いました。岡山県西粟倉にあるエーゼロ株式会社、中央大学の海部教授、そして僕を中心に立ち上げたものです。今後、鰻に関わる様々な人を巻き込んで活動していきたいと考えています。
──具体的にはどのような問題について話し合われるのでしょう?
生態系や流通など鰻にまつわる現状を把握し、その上での改善点について話し合っています。
うなぎをとりまく現状。
— 鰻 はし本(八重洲) (@unagideshiawase) 2018年6月17日
○同→元が増えれば増える
○逆→元が増えれば減り、
元が減れば増える
完璧なものではないけれど
鰻を消費する主な国として
沢山の人に知ってもらい、
多様な意見を交換したい。#拡散希望pic.twitter.com/8kK0c5RvTJ
特に密漁や密輸は国際的にも大きな問題となっているため、生産地や流通の流れを透明化することが課題の1つです。資源的な管理をする場合、生産者はもちろん稚魚の原産地の情報まで必要になってくると思います。
しかし、鰻の業界においては、専門店と生産者が結びつくことがほとんどできなかったんです。
──それはなぜでしょう?
鰻の流通は基本的に問屋を通して行われています。つまり生産者の顔は見えない取引というわけですね。
鰻の勉強のために、専門店の集まりで養鰻場を見学したこともあるのですが、企業養鰻と呼ばれる大きな工場を併設している加工主体のところだったので、専門店に出すような鰻は基本的には育てていませんでした。
だから僕らには、自分のところで扱っている鰻がどんな風に育てられているかについて学ぶところが無かったんです。
──なるほど。
今の時代、野菜や肉は調べようと思えば、生産者が当たり前にわかるじゃないですか。僕らは鰻を専門にしているはずなのに、鰻の流通や生産者のことはよくわかっていない。僕はそのことを常々疑問に思って、ずっと自分で情報を集めていました。
そうしたら、泰正養鰻の横山さんという方が鰻の育てている過程をSNSで発信していた。僕としては初めて中小の生産者の方を発見できたわけです。今まで全く知らなかったものが情報として発信されていたので、うれしさだけでなく興味がすごくわいてきて、すぐに連絡を取りました。
──そこから「横山さんの鰻」を扱われるようになったんですね。
実際に店で取り扱うまでには1年近くかかりましたが、この出会いは僕にとってはとても大きなものでした。横山さんに出会えたのももちろんですし、ここをきっかけに、静岡県吉田町の石川さんが育てる「石川さんの鰻」や岡山県西粟倉村の「森のうなぎ」のような生産者の顔の見える鰻の取り扱いに舵を切れるようになったんです。
高校中退。奔放だった10代から20代
──鰻に対しての想いが伝わります。やはり幼い頃から鰻屋を継ぐという意識はあったのでしょうか?
いや、もう全然! 実は本当にドラ息子だったんですよ。だから僕の経歴って結構ひどくて(笑)。中学受験で、都内の私立の学校に入ったものの、出席日数が足りなくて高2で中退。そこから通信制の高校を卒業して、アルバイトや派遣業を転々としながら、遊びまわっていました。
──耳に大きなピアス穴が空いていますね。
そこは娘の友達にもよく突っ込まれます(笑)。
鰻の組合にも、僕みたいな見た目の人はあんまりいないですよね。髭面の人なんて見たことがない。組合の総会に参加したときには「橋本くん、こういうところへ来るときはそれ(コンバース)はダメだよ」とお叱りを受けたこともありますね…。
──確かに鰻屋の職人のイメージからはかなりギャップがあります。
そうかもしれないですね。僕の地元は池袋なんですけど、10代の頃は西口公園でよく遊んだんです。スケボー、BMX、ダンスが好きな人たちが集まって、いろんなことやってたんですよね。
20歳過ぎてからは音楽が好きだったのもあって、DJも始めました。仲間内では「ショミ」って呼ばれてるんですけど、これも元々DJのときの名前です。
旅行も好きだったので、バックパッカーもやっていました。世界中を回って、日本人としてのアイデンティティを改めて認識したような気がします。日本で生まれ育った自分がいかに幸せかを実感しましたね。
──色々な活動をされていたんですね。実際に鰻に関わるようになったのはいつ頃だったんですか?
24歳くらいの頃に、父から「店の板場に入れ」と言われたのがきっかけですね。正直なところ、最初は僕としてもそこまでやる気がなくて……。毎日惰性で仕事をするというか、ぼんやりと「もっとこうしたら良くなるなあ」と考えていたくらいでした。
板場を取り仕切るようになったのに、仕事にも集中しないで遊んだりしていたから、妻は離婚しようかと思っていたらしいです(笑)。
──今のようなお店になるのには何かきっかけがあったんでしょうか?
子供が生まれたことや、震災のことなど色々あったと思います。このままでいいのかと考えることが、そのころに立て続けにあったんですよね。「お店やばいかも」くらいのぼんやりとした感覚が、本当に「やばい」という実感になった。
そこで、お店のあらゆる要素を変えることを決意しました。幸い惰性で身についた技術だけはありましたし、自分がやるべき事はわかっていましたから。
老舗にもたらした「伝統と革新」
──大きく舵を切ったわけですね。
はい。ただ身内からの反発が予想以上に大きかった。「若旦那、急にどうしちゃったんだ」って。
それはそうですよね。これまでぼんやりと仕事をしてた人間が、突然全てを変えるなんて息巻いている。本当は身内にこそ力になって欲しかったけど、反発されても仕方がないことだったとは思います。
──それでも変化を恐れなかったんですね。
だっていつ潰れるかわからないような状況で、現状維持という選択はないと思うんですよ。歴史があるといっても、100年以上続くお店が山ほどある鰻屋の中ではたかだか7、80年。お客さんが入らないのであれば、もう全力でやるしかないと思ったんですよね。
──どういう風に変えていったのでしょうか?
まずは店の倉庫を徹底的に掃除することから始めました。次にひたすら勉強。お客さんが来なかったから時間だけはあったので。
それと並行して、実際に自分で調理の試行錯誤をしていくことの繰り返しでした。休む暇もなくて大変だったけれど、次第にそれがライフワークになって、没頭できたんです。
──自身の姿勢から変わっていったわけですね。
そうだと思います。そして調理部分に関しても、既製品は一切使うのをやめました。
例えばお漬物は市販のものを使うこともあったんですけど、全て自家製のものに。野菜は信頼を築いた八百屋さんから仕入れたものを使うようにしました。コース料理も全て組み直して、前日昼までの要ご予約として、海の食材は使わないことにしました。
──海の食材を出さないことには理由があるのですか?
僕らは鰻のことは専門ですけど、マグロとかウニのことは詳しいわけじゃない。居酒屋チェーンにすら、値段や質で張り合うのは難しいんです。だから鰻を中心とした川魚にスポットを当てることで差別化を目指しました。
──老舗と言われていますが、昔とは大きく変わっているんですね。
そうですね。以前のままのものはあまりないです。だから伝統とか歴史とかっていう感覚は、他の店の方とは違うかもしれないです。
ただ、唯一言えるのは、伝統とは同じことを守り続けていればいいというものではないということ。その一方で絶対にブレてはいけないものをしっかりと抱えているのが伝統なんです。
例えば、うちで出してる鰻の刺身って革新的だと思うんです。
だけど、いくら革新的とはいっても、お客さんが喜んでくれないものを出しても意味がない。何を求めてるかはきちんと考えなければいけないんです。この店ならうな重が軸ですよね。みんなが鰻を食べにきている。そこで、ようやく鰻の刺身というものがアクセントとして効いてくると思うんです。
──なるほど。
新しいことを始めるときって、一見奇抜な方法に走りがちですけど、それだけではいけないと思ってます。僕も一時期、かなり革新的という言葉に捉われていたんですけど、こういう古いお店だと、10回トライして残るのは1つあればいいくらいです。
でもそこで残ったものを拾い集めたときに、初めてやってよかったなと思えたのですけどね。
鰻に向き合い続ける覚悟
──橋本さんはお店のこともそうですが、鰻の様々な課題にも取り組まれています。鰻に対して、どのような思いを持っていますか?
僕の家は代々鰻屋です。鰻を殺めて、それをおいしく仕立て、食べたお客さんが対価を払ってくれる。そうしてずっと暮らしてこれたわけですよね。
僕がこうして生きているのって、完全に鰻の恩恵なんですよ。それに対して何かを返すときが来たんだと思っています。
どんなに頑張ったとしても、この困難を前にお店は潰れてしまうかもしれない。
でもそういうことを考えて、怖がっているだけで何もしないことほど、ダサいことはないと思うんですよね。だから僕は、常に店がダメになる覚悟をもって発言と行動をしています。
もし店がダメになったとしても、まだ僕には家族を食わせていく若さと体力と知恵があるし、何でもできると思っています。
だから今は、鰻のために、鰻という日本の文化のためにできることを全力でやるだけだと考えています。
書いた人
しんたく
編集者・ライター。Huuuu所属。現在は東京と長野を行ったり来たり。気がつくと青い服ばかり買っているけど、広島東洋カープがすき。