みなさんは「イタめし」をご存じだろうか?
イタリアのめし、つまりイタリア料理のことであるが、バブル期にはこのイタめしを恵比寿や西麻布で食べるのが最高にナウだった。
と、さもバブル時代を謳歌したような書き方をしてしまったが、筆者自身は当時小学生で、バブルに関しては「なんか大人が浮かれてたなー」くらいの印象しかない。したがって、なぜ大人がこぞって「イタめし」を有難がっていたのか、今なお全く理解できていない。
というか、バブルの前後って他にも「なんで流行ったか分からない、独特の食べ物」が多くないか? ティラミスとか、ナタデココとか。あと、あのボジョレー・ヌーヴォーも、最初にフィーバーしたのはバブル真っ盛りの1989年らしいし。
今回はそんな謎多き「バブルめし」について、徹底的に迫りたい。
というわけで、有識者のもとを訪ねた。
日本の食文化を知り尽くす賢人・畑中三応子氏に聞く
お話を伺ったのは、編集者の畑中三応子さん。『シェフ・シリーズ』『暮しの設計』編集長を経て、数々の料理本を手掛ける傍ら、近現代の食文化を研究・執筆し続けてきた。
著書『ファッションフード、あります。』では、その膨大な知識をもって1970年代以降の日本の食文化を考察している。とてつもなく面白い本なので、ぜひ読んでいただきたい。
さて、「イタめし」である。いったいどういういきさつで、ブームが巻き起こったのだろうか? 畑中さんに聞いた。
―― さっそくですが、今日は1980年代後半から1990年代初頭にかけて流行った「バブルめし」について、徹底的にお聞きしたいと思います。「イタめし」「ティラミス」を中心に、ブームの背景を丸裸にする所存ですので、何卒よろしくお願いいたします。
「はい、凄い意気込みですね」
―― まずは「イタめし」についてですが、なぜイタめしはバブル時代におけるトレンドの頂点だったのでしょうか?
「そこに至るまでには様々な背景があります。まず、80年代には最初にフランス料理がブームになりました。勝負デートのはしりとして、『ポパイ』や『ホットドッグ・プレス』などの男の子雑誌ではしきりに、特別な日のフランス料理を推していた。クリスマスイブにはレストランに彼女をエスコートし、何カ月も前から予約していたシティホテルに泊まる。そんなマニュアル通りに、当時の若者たちは行動していました」
―― 確かに当時のフランス料理って、「贅沢の最高峰」というイメージでした。当時、子どもだった僕にとっては想像もつかない憧れの料理でしたけど。
「バブル景気がはじまる前の1984年には、フランス最高峰の三ツ星レストラン『トゥールダルジャン』史上初の支店が、東京のホテルニューオータニ内にオープンしています。本国の一般的なフランス人は一生に一度すら足を運ばないような超高級店ですが、当時の日本人は開店と同時に殺到しました」
―― とてもバブルっぽいエピソードですが、1984年というとバブルの少し前ですよね。その後、本格的な超好景気の到来でみんな羽振りが良くなって、フランス料理人気がさらに加速するかと思いきや、イタめしに取って代わられてしまう…。なぜですか?
「みんな、疲れちゃったんですよね。慣れないテーブルマナーに緊張しまくり会話も進まないまま食事を終え、二人で4~5万円の会計に青ざめる。そんな光景を、当時は何度も目の当たりにしました。
そのうち、バブル景気の到来とともに、もっと軽いノリで食べられるイタリア料理が追い上げてきたわけです。イタめしの気取りのなさは、バブルの享楽的な気分にもぴったりハマった」
―― 確かにバブルのお祭り感は、格式高いフランス料理に馴染まない気がします。
「ボディコンギャルとバブル戦士っていうのは、フレンチよりイタリアンの方が似合う。オープンキッチンでエンタメ感があって、おしゃれなんだけどワイワイガヤガヤ楽しめる。イタリア料理っていうのは、それまで欧風の食を憧れの対象として追い求めてきた日本人が、史上初めて『居酒屋気分』で食べられる西洋料理だったんです。
料理自体もシンプルだし、ワインは『キャンティ』と『バローロ』の2種類くらいを覚えておけば十分。フランス料理と違って、イタめしは“わかりやすかった”というのも大きいですね」
西洋料理への劣等感から日本人を解放した「イタめし」
―― それまでもイタリア料理店っていうのは普通に日本にあったんですか?
「いえ、1980年代中盤までは、まだまだマイナーな存在でした。1985年の東京で、前菜からデザートまで提供するめぼしいレストランは15軒前後でしたね。
風向きが変わったのは1986~87年くらい。1985年に原宿に『バスタ・パスタ』っていうお店ができて、そこはニューヨークスタイルのイタリアンでしたけど、時代の先端を行く業界人たちが通いはじめた。
さらに、イタリアで修行した料理人がポツポツと帰国し、本場仕込みの味をふるいだしたのもこの時期です」
▲当時、畑中さんが編集していた雑誌。こちらでもイタリア料理を大々的に特集している
―― なるほど、ブームの土壌が少しずつできていく感じがしますね。
「そして、イタリア料理が『イタめし』と呼ばれたその瞬間から、快進撃がはじまりました。絶妙なネーミングですよね。これによりぐっと親近感を抱き、日本人は格式高いフランス料理、西洋料理への劣等感から解放されることになった。実際、バブル期のイタめし屋はアンチ・フォーマルのカジュアル志向を徹底していましたから」
―― 「イタめし」って言葉は、いつ、誰が言いだしたんでしょうか?
「命名者は不明ですが、私が調べた限り、雑誌でイタめしという言葉が初めて使われたのは『Hanako』(マガジンハウス)の1988年10月6日号。同年の5月に創刊した『Hanako』は、女性好みのトレンディーなお店を紹介する、初めての週刊レストランガイドとして機能していました。可処分所得と自由時間を手に入れ、食べ歩きにいそしむようになった若い女性たちのバイブル的位置づけでしたね。同誌の食情報は、味そのものよりトレンド性を重視するのが特徴。ちなみに、『Hanako』はティラミスブームの火付け役でもあるのですが、それはまた後でお話します」
―― 『Hanako』おそるべし! そして、「イタめし」で定着した1988年頃から空前のブームが訪れるわけですね。
「当時、イタリア料理店の開店ラッシュは凄まじかったですよ。なかでもイタめし屋のシンボル的な存在になったのが、恵比寿の『イル・ボッカローネ』。ドアを開けた瞬間に『ボナセーラ!(こんばんは)』とイタリア語の明るい挨拶が響き、オープンキッチンの天井から生ハムのかたまりがぶら下がり、壁にはオペラやセリエAのポスターが貼ってある。まさにコテコテ、絵に描いたような紋切型のイタリア料理のお店です。1989年のオープン直後から大人気になり、同じくいかにも本場っぽく演出した『ボナセーラ系』と呼ばれるイタめし屋が乱立しました」
***
というわけで、改めてイタめしブームの背景をまとめると、
・フランス料理に対する気疲れ
・軽いノリで食べられるイタめしはバブルの享楽的な気分にぴったり合った
・日本史上では初めて「居酒屋気分」で食べられる西洋料理だった
・イタめしはわかりやすかった
・1985年頃からイタリアで修行した料理人が日本で腕をふるいはじめた
・イタめしという絶妙なネーミング
・コテコテイタリアン「ボナセーラ系」の台頭
ということのようだ。
なお、このムーブメントは日本に本場のイタリアンを定着させ、現地の食材を一般家庭に普及させる契機となる。
スパゲッティは「パスタ」になり、本国で食べられてきた大衆パスタを含む本格的なイタリア風が根付いた。オリーブオイルやバルサミコ酢、モッツァレラチーズ、ルッコラをそのへんのスーパーで買えるのも、美味しいペペロンチーノが手軽に食べられるのも、イタめしブームのおかげなのである。
ティラミスは流行るべくして流行った
―― 続いて、ティラミスブームについてお聞きします。
「どうぞ」
―― ティラミスの一大ブームが巻き起こったのが1990年。それまで日本人が知らなかったお菓子がいきなり爆発的に流行ったのはなぜなんでしょうか?
「これも複合的な要因があるのですが、まず、そもそもティラミスというお菓子は突然に降ってわいたものではありません。それ以前から高級イタリア料理店などでは普通に作られていました。それが、イタめしブームに便乗して広まっていった感じですね」
―― 先ほど、火付け役は『Hanako』であると。
「ブームのきっかけとなったのは『Hanako』1990年4月12日号の“イタリアン・デザートの新しい女王、ティラミスの緊急大情報”というのが定説です」
―― (当時の誌面を見ながら)これ、見出しが強烈ですね。「いま都会的な女性は、おいしいティラミスを食べさせる店すべてを知らなければならない」。ネットの釣り記事も真っ青の煽りタイトル……、みんなこれにノセられた?
「でも、こうした脅迫的かつ扇情的なタイトルはいつものHanako流の常套句ですし、そもそもその号のメイン特集でもなかったんです。
ところが、発売直後からイタめし屋にティラミス目当ての女の子が押し寄せた。ほどなくして、あらゆるメディアがこぞってティラミスを取り上げ、洋菓子店、アイスクリームショップ、ファミリーレストラン、ファストフードなどのメニューにも登場。ついにはコンビニデザート化するなど、猛スピードで波及していきました」
―― すごい……。でも、いち雑誌が取り上げただけで、そこまで広がるものですかね?
「きっかけは『Hanako』でしたが、ここまでのブームを巻き起こした背景は他にもあります。
まず、“チーズケーキ”の仲間であり、“ムース”の一種であったことが大きい。チーズケーキは70年代に大ヒットして以来、洋菓子界に君臨してきましたし、ムースも80年代後半から流行していました。それまで日本人は粘りのあるものやハッキリとした食感のものに親しんできたため、ふわふわした食感のムースはとても目新しいものだったんです。
チーズケーキというヒット商品の系譜であり、なおかつ新鮮な味わいのティラミスは、流行るべくして流行ったといえるかもしれません」
大量生産を可能にした疑似チーズ「マスカポーネ」
―― そうか、ティラミスってチーズケーキの仲間だったんですね。ふわふわ感ばかりが頭に残って、チーズの印象は薄かったです。
「本来は北イタリア産のマスカルポーネというチーズで作ります。ただ、当時はかなり高価なうえ、日持ちも悪いので、大量生産は不可能とされていました」
―― でも、ファミレスからコンビニから、大量に生産されたんですよね?
「マスカルポーネの代わりに『マスカポーネ』という名の疑似チーズが使われたんです。ティラミスブームが訪れる前年の1988年7月に不二製油という会社が開発しました」
―― 不二製油、すごい先見の明ですね。
「同社は元々ニューヨークで流行っていたティラミスに目を付け、マスカポーネを開発したのだと思います。そして、全国の洋菓子店を対象に“ティラミス・キャンペーン”を打っていた最中に『Hanako』の特集号が発売されて、注文が怒涛の勢いで押し寄せた。
マスカルポーネの3分の1のコストで作れ、なおかつ保存期間も倍以上。この発明があればこそ、安く大量にティラミスを製造することができたわけです。そして、メガトン級の大ヒットへとつながりました」
―― さまざまなヒットの要因が全てタイミングよくカチっとはまって、巨大なムーブメントになったわけですね……。
「あと、名前の語感もかわいいですよね。ティラミス。覚えやすいですし。あの糸井重里さんも『ウケると思いました。名前がテトリスに似てるから』と言ったとか」
―― ティラミス以降、新しいお菓子が「いきなり流行る」現象がやたらと起きた気がします。「チーズ蒸しパン」とか「ナタデココ」とか「パンナコッタ」とか。全部すごく唐突でしたけど、あれってやっぱりティラミスの影響が大きいんでしょうか?
「はい。菓子・外食業界およびメディアは“ポスト・ティラミス”を躍起になって探し回りましたから。その結果、90年代はまさにスイーツ時代になりましたよね」
―― 「スイーツ」という言葉が浸透し始めたのも、その頃からですよね。
「便利な言葉ですよね。老舗の羊羹も、コンビニの菓子パンも、トレンドを競い合うあらゆる菓子類を全て一緒くたに括れるわけですから。どんな出自のお菓子でも、『スイーツ』と言い換えた瞬間から新しく感じさせる威力があります」
▲ちなみに、ナタデココはフィリピンの特産品。当時は大手商社が一斉に現地へ買い付けに走ったという (※写真はイメージです)
日本人は「ファッションフード」が大好き?
―― 畑中さんは著書の中でイタめしやティラミスといった流行りのグルメを「ファッションフード」と総称しています。改めて、ファッションフードとはどういったものなんでしょうか?
「味そのものよりもファッションとして、流行の洋服や音楽などと同じ次元で消費される食べ物のことです。特に外来の食べ物ですね。節操なく新しいものを求めてきた日本の食文化への愛と皮肉をこめて『ファッションフード』と名付けました」
―― おしゃれなものを食べている体験そのものが楽しい! みたいなことですかね。
「今、盛んに『モノ消費からコト消費』、つまり体験が重要だといわれていますよね。でも、食べ物に関してはとっくの昔にコト消費とか“物語消費”にシフトしていました。
たとえば、1971年にマクドナルドの日本一号店が銀座にオープンした時、なぜ若者が熱狂したか。銀座四丁目という場所でハンバーガーを立ち食いするという新しい体験、それを皆で共有するのが楽しかったわけです」
※写真:久保靖夫/アフロ
―― 格式高い銀座でハンバーガーを立ち食い。当時の感覚からすると大人は眉をひそめそうです。でも、そういう反逆精神みたいなものも相まって、イケてる行為だったんでしょうか。まさに、ファッションですね。
「純粋な美食行為ではないですよね。もちろん味も楽しむんですが、それ以上に参加したい、体験したいっていう欲求のほうが強い。
考えてみれば、文明開化の時代の牛鍋ブームだって、ファッションフードといえるでしょう。味どうこうより、牛鍋という新しい食べ物を牛鍋屋で食べてみたい。体験としての面白さとか、時代の最先端にふれて気分がいいとか、そういうことだったんじゃないでしょうか」
―― 確かに、日本人は新しもの好きですね。未だに新しい食べ物、特に「日本初上陸のスイーツ!」とかはやたらと有難がられます。表参道とか恵比寿には毎年なにかしらが初上陸している。
「でも、ティラミスのような社会現象は二度と起きないかもしれませんね」
―― やはり、あれはバブル期ならではの熱狂だったのでしょうか?
「世の中全体が浮かれていましたからね。それに、昔はみんなが右向け右で流行を追いかける時代でもありました。雑誌の全盛期で、特に『Hanako』のようなトレンド情報誌はものすごく売れていた。その影響力はすさまじく、同誌で特集されたお店には確実に行列ができていましたから。
インターネットで各々が好きなものにアクセスできるようになった今では、ひとつのものにあれだけの興味関心が注がれる現象って起こり得ないんじゃないかな」
***
消費意欲と好奇心を持て余したバブリーさんたちによって担がれ、いきなり時代の表舞台に引きずり出されたティラミス。ティラミスブームとは、バブルが生んだ悲しきモンスターなのかもしれない。いや、べつに悲しくもモンスターでもないが。
筆者のようなロスジェネ世代、いわゆる「失われた10年」に社会へ出た人間はバブルをつい斜めに見てしまう節があるのだが、コンビニでおいしいティラミスが食べられるのもまた、そんなバブルのおかげなのである。
おまけ:ファッションフードの歴史年表
さて、最後に畑中さん監修のもと、日本のファッションフードの変遷を年表にしてみたのでご覧いただきたい。
1970年代は日本におけるファッションフードの成立元年。1969年の飲食業100%資本自由化によりマクドナルドをはじめとする外国資本のファストフードがドドドっと来襲。大阪万博で世界中の未知なるグルメに初遭遇し、クールで新しい食べ物「カップヌードル」も爆誕した(※当時は新しくておしゃれな食べ物、という打ち出し方だったらしい)。
雑誌『non-no』『an・an』が相次いで創刊し、ともにファッショナブルで可愛いグルメを啓蒙。アンノン族と呼ばれた女の子たちを中心に、チーズケーキ、クレープ、オムレツなどがブームに。
1980年代は「飽食の時代」。高級レストランで数万円もするフレンチのコースを食べる贅沢な大学生がいっぱいいたそうな(※現代と感覚が違いすぎて、思わず昔話口調にもなる)。
フランス料理ブーム、エスニックブーム、飲茶ブーム、激辛ブームなど 、さまざまな食ブームが起きては消えた。食がファッションとして消費されることへのアンチテーゼ、と作者が語ったという『美味しんぼ』も「究極」が新語大賞をとり、巷のサラリーマンの間で食のウンチクをひけらかす「美味しんぼごっこ」が流行るなど、空前のグルメブームの波にのみこまれていく。そして、バブル到来とともに「イタめし」が最強のファッションフードへ君臨する。
※年表作成:周東淑子(やじろべえ)
イタめしブームを追い風に、日本全土を巻き込むティラミスブーム到来。以後、「ポスト・ティラミス」としてさまざまなファッションスイーツが出ては消える。この流れは現在もなお続いており……今はなんだ、パンケーキとかか。
なお、畑中さんの著書ではこの前後の時代も含め、より深く広くファッションフードを考察している。とてつもなく面白いので、ぜひ読んでほしい(2回目)。
「イタめしといえば」な「イル・ボッカローネ」

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プロフィール
榎並紀行(やじろべえ)
1980年生まれ埼玉育ち。東京の「やじろべえ」という会社で編集者、ライターをしています。ニューヨーク出身という冗談みたいな経歴の持ち主ですが、英語は全く話せません。
> ツイッター: Twitter (@noriyukienami)
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