「ドーハの悲劇」という言葉は広く知られているだろう。
だがそのドラマ性があまりに強烈だったため
最終予選に至るまでのストーリーはなかなか振り返られない。
日本は決してアジアの強国ではなかった。
まだワールドカップに出たこともなかった国が
なぜ残り17秒というところまでたどり着けたのか。
ハンス・オフト監督は何を重視していたのか。
どうやって選手を観察したのか。
そしてなぜ日本はその後強くなることができたのか。
ドーハでの食事やスタジアムの時計はどうだったのか。
そして世界への扉が閉ざされたとき何を思ったのか。
当時のコーチだった清雲栄純氏に話を聞いた。
清雲氏の資料がいつか日の目を見てほしいと思う。
そうすれば日本サッカーの足跡はもっとくっきりするはずだ。
四半世紀近く経ちながら今でも学ぶべきことは限りなくあった。
突然だったオフト・ジャパン入閣
オフト・ジャパンのコーチになった以降のことは、詳細にメモしてずっと取ってあるんですよ。カタール・ドーハのホテルの部屋割りや、ホテルの中の様子なんかもメモとして残っています。
今ではありえない事ですが、全チームが同じホテルの同じ棟に宿泊していました。日本チームはスタッフが9階、選手が8階にいて、別棟に確保した食堂兼ミーティングルームになっていた部屋は7階でした。食堂兼ミーティングルームの部屋の横にはテーブルサッカーや卓球台が置かれていて、キッチンは通路を挟んで部屋の反対側です。
同じ階には韓国のチームの食堂兼ミーティングルームもあってね。エレベーターを降りて私たちは右、韓国は左でした。韓国の選手やスタッフに会っても目を合わせないようにしていましたね。
そのときのワールドカップ予選は、1次リーグが日本ラウンド、UAEラウンドという2つの国で行われ、最終予選はカタールでのセントラル方式でした。そのUAEラウンドから日本代表はシェフを同行していたんです。ハンス・オフト監督は食事をものすごく大事にしていましたね。
ところがUAEのときは試合の前後ぐらいしか食事が用意できませんでした。ホテルの厨房の使用許可がおりなかったんです。だからドーハの時は、自分たちのキッチンを用意してもらいました。そして国内で日本代表が定宿にしていたホテルのシェフさんに同行してもらったんです。
カタールでは朝、昼、晩と毎食バイキング形式の食事が用意されていました。納豆などは持って行けたのですが、米なんかは現地に持ち込めなくて、日本人好みの米を現地で探してもらったりしていました。それから食材は現地の商社や現地の人たちが集めてくれていましたね。バイキングでは地元の食べ物もありましたけど、日本食も用意してもらいました。試合の前には炭水化物をベースにした、サンドイッチやおにぎり・うどん・そばなどの軽い食事ができるようになっていましたし、試合の後も回復できるような食事を用意してもらっていました。
オフト監督が就任したのはワールドカップ予選の1年前の1992年でした。そのとき、ちょうどJリーグが始まるということで、有力な指導者は監督やコーチとしてすでにチームが決まっていたと思います。当時の私はコーチをやるつもりなんか全然なかったし、力もないというのは自分でわかっていて、ジェフユナイテッド市原を立ち上げたら実家に帰ろうと思っていたんです。実家は寺で、私は長男だったので、檀家さんたちにお願いしてサッカーをやらせてもらっているようなものでしたから。
私は高校時代までラグビーもサッカーもやっていました。ラグビーは強くて花園まで行きましたね。学校のラグビーの先生からは早稲田大学や同志社大学を勧められて、実際大学の先生にまで会っていました。
でも、サッカーの高校の先生からは「サッカーをやっていると海外に行けるし、いろんな経験ができるぞ」と勧められていました。サッカーはできるはずがないと思ってたんですけが、先生から「将来はどうするのか」と聞かれたので、「田舎に帰ってきて寺を継ぐのでそのために勉強もしなければいけません」と答えたら、「法政大学に行ったらサッカーも勉強もできるぞ」って説得されて。それでサッカーを選んだんです。
その後、日本代表にも入ったけど何もできなかったですね。もうちょっとボールを止めたり蹴れたらよかったんですけど。でも、ヘディングは釜本邦茂さんに教えてもらったんですよ。私はヘディング強かったんですけど、タイミングの取り方は釜本さんに教わりました。
代表の練習で2人1組のを作るとき、余っていたら釜本さんも残ってたんです。みんな怖くて釜本さんと組みたがらなくて。パスがずれると、釜本さんは「オレは取りに行かない」っておっしゃるので(笑)。それでいつも2人組む感じになりました。
ヘディングで競る練習をしていたら、釜本さんが「お前の競り方では簡単に勝てない。もっと助走を斜めからつけて、腕をうまく使え」って。すごく理論だって教えてもらいました。
釜本さんは落下地点に入るのが上手いんです。それで私はいつも体をピッタリ付けてたんですけど、釜本さんはグイグイ押してきて、競らせないようにしてくる。だから、「競る前は相手が来ても離れろ」と。「自分で落下地点を見極めながら、真後ろじゃなくて斜めから片足ジャンプで競れば、お前のジャンプの力ならそう負けるはずはない」って。たぶん、あのヘディングの強い釜本さんから極意を教わった人はほとんどいなかったでしょうね。幸運でした。
ただ、その当時の代表合宿は旅館でしたからね。僕たちの試合前はラーメンとおにぎりですよ。監督はそれでも戦えるって。
現役生活10年を終え、古河電工サッカー部の監督を7シーズン・副部長を務めた後に会社の仕事が一区切りついたら、そろそろ故郷に帰ろうとしたときに、日本代表の強化責任者だった川淵三郎さんから呼び出されたんですよ。オフト監督が来ているなんて知らされなくて行ってみたら、川淵さんから「お前、手伝いをしてくれ。まさか断るわけじゃないだろう?」って言われて。そこにオフト監督もいて、「一緒にやろう」って言われて。そのときの写真です。
(提供:清雲栄純氏)
食事の席順でわかる選手からの信頼
日本代表の合宿は最初、結構ピリピリしました。セレクションみたいなキャンプからスタートしましたから。その最初のミーティングで作ったルールは、
「アイ・コンタクト」
「トライアングル」
「サポート・ディスタンス(サポートの距離)」「サポート・アングル」「サポート・タイミング」
「チェンジ・リズム」
「チェンジ・サイド」
「スモール・フィールド」
「アグレッシブ・タックリング」
「リスタート」
「ビー・ケアフル・オブ・ニュー・GK・ルール(新GKルールに注意)」
でした。
オフト監督は、規律がしっかりした人でした。たとえば朝は必ず選手たちと握手をするんです。最初の浜松のキャンプでは選手の状態を知りたいということで、夜22時までロビーにいようと決めてました。誰が出入りするかとか、誰と誰が仲がいいかとか。そういうのをチェックするんです。それで22時30分になると監督が部屋を見てこいと言うんです。それで部屋をまわって、寝てるかとか起きてるかとか、休んでるかとか、そういうことをチェックしましたね。
ミーティングのときは、準備のために1時間前にミーティングルームに行ってました。当時は模造紙に字や図を書いたのですが、選手の目線に合わせるために、後ろにいる私を立たせ「見えるか」と確認させていたりしました。集中させるためにイスの並べ方にもこだわっていましたね。
食事を取るときの机の配置は「コ」の字型でした。その真ん中にオフト監督と私たちスタッフがいて、あとの席は自由です。自分たちの位置からはすべての選手の食事が見える。それがポイントでした。そして私たちは選手を見ながら食事をするんです。
食事のときは先に私たちが座っていて、そこに選手が入ってくるんです。オフト監督は私に「私たちの近くに座る選手は私たちを信頼している」という話をしていました。ラモス瑠偉は最初、一番遠いところにいたんですよ。それが最後はすぐ近くにいるようになりましたね。
あとはどんな食べ方をしているか、チラチラ見ながら食べていましたね。何を食べているかとか、食が細くなっていないかとか。カズ(三浦知良)はいつもしっかり食べるんですよ。ゴン(中山雅史)なんかはそれにつられてしっかり食べていました。食事の取り方も競争みたいになっていましたね。ちゃんと食事が取れないと、いいパフォーマンスができないということがわかったので。
食事の量がコンディションのすべてではないのですが、ベースであるのは間違いない。カズは本当にバランスよく食べるんです。そこは本当にすごかった。ラモスの食は細いんですが、体質かもしれないんですけど、エネルギー効率がよくて試合で落ちないんです。ラモスは小まめに守備をするわけじゃないんだけど、危険察知能力が優れているから、危ないときには50メートルぐらい返ってきてスライディングしたりする。そういうゲームを読む能力というのはすごかったですね。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒です。食べ終わっても自分の部屋に帰らない。だから食堂の滞留時間が長いんです。そしてその部屋には自分たちや相手のビデオを流したり、戦術を書いた紙が貼ってある。選手はどうしてもビデオや紙を見ざるを得ないんです。カズはよくビデオを見てました。
(提供:清雲栄純氏)
オフトはいつもカツ丼ばっかりだった
オフト監督はすべてがものすごく計画的でした。そしてわかりやすかった。あの1992年がなかったら1993年はなかったですね。
6次キャンプまでやって、そこから予選に臨もうという計画でした。そこがしっかり構築されたので、最終予選のドーハまでつながったと思います。7月にオランダでチーム作りをしっかりやって、8月にユベントス戦を2試合戦った後に北京のダイナスティカップに臨み、10月の広島アジアカップというところまで細かなプランが出来上がっていました。
だけど、ダイナスティカップのころはみんな疑心暗鬼でした。当時は代表への注目度は低くほとんど取材に来てなくて、北京にはたしかメディアは2人しかいなかったと思います。
あのチームでの一番うれしかった思い出は、やっぱりそのダイナスティカップに優勝したときですね。北京のメディアは「日本は4チームの中での評価は低く、日本は一番下だろう」という記事が出ていたのに、ずっと勝ち進んで行きましたから。
初戦は韓国戦だったんです。試合前に相手選手のリストがロッカールームに届くと、オフト監督がそのメンバー表をいきなり破いたんですよ。「韓国の選手のことは忘れろ!」って。
第2戦の中国戦のときには、「後半になったら観客がみんな日本を応援するぞ」って言って、そのとおりになりました。マジックじゃないですけど、選手のパフォーマンスは試合ごとによくなっていきましたね。
決勝で韓国をPK戦で下して優勝し、世間の見る目が変わりましたね。中国に行く前と帰ってきてからは、チームの評価が大きく変わりました。
そして私たちは、実は広島のアジアカップでも苦戦するだろうけれど優勝するだろうと思っていたんです。ホストカントリーだし、それまでの積み重ねもあったので。
あのとき、高木琢也を使うかゴンを使うかという選択がありました。高木はそれまで結果を出してなかったし、足首を痛めてた。私は控えの選手を見ていたのですが、ゴンはすごく調子がよかった。私はゴンじゃないかと思ったんです。
ところがオフト監督が言うんです。「高木はどこの選手だ?」「日本の選手だ」「いや、そうじゃない。広島の選手だ。ここは広島だ。だから賭けではない。必ず彼は仕事をするはずだ」って。
それで監督は高木を呼んで「お前は最高のストライカーだ」って話をしたんです。暗示かけるみたいなもんですよ。それで決勝のサウジアラビア戦は高木のゴールで1-0で勝ち、優勝することができました。
それからは僕たちが思う以上に注目されました。でもプレッシャーはなかったんですよ。オフト監督が明るい人だったから。
日本サッカー協会も、ものすごく協力的でした。最終予選のドーハに向けての代表チームからの要望は、「チャーター機」「ホテルでの専用のキッチンとミーティングルーム」「シェフ」だったんです。それを全部協会は飲んでくれました。
あのときの代表チーム、メディア、ファンとはいい関係だったと思います。チームだけじゃなくて、メディアやファンを含めてみんなファミリー的でしたね。スペイン遠征のときはメディアの人たちと一緒にポーカーやったりもしましたしね。今はもうできないですよ。
テツ(柱谷哲二)はそのスペイン遠征に病気で行ってないんですよ。だから、向こうからファックスを送りました。当時はメールなんてありませんからね。私は「ラモスは相変わらず飛ばしすぎる」とか、今のチーム状況なんかを書いて。一番下にオフト監督もメッセージを書いてましたよ。そういう雰囲気でした。
みんなを巻き込むという考えは、いろいろな広がりも持っていたと思います。私たちは神田小川町に日本サッカー協会強化部の使っていた部屋があり、最低毎週1回はお昼に集合して、テイクアウトの食事を持ち帰って一緒に食べ、それからミーティングをしていたんです。
そこに月1回は、ユース代表監督(後に五輪代表監督)の西野朗、ユース代表コーチ(後に五輪代表コーチ)の山本昌邦、ジュニアユース代表コーチの小見幸隆、ユース総監督の小嶺忠敏さんにも来てもらって、一緒にミーティングしていたんです。そういう人たちに、「代表はこうやっているからそういうのを共有しよう」って。
現在は五輪代表の監督に呼びかけることはあっても、なかなか下カテゴリーのスタッフまで巻き込むのは、今ではもうないかもしれませんね。監督は「私はワールドカップに連れて行くことが使命だけど、代表につながるような選手を育てる『コンティニュー』が大事だ」と言ってましたね。その礎があったから今があるんだと思います。そうそう、オフト監督はカツ丼が大好きでした。テイクアウトはいつもカツ丼ばっかりでしたね。
オフトとラモスは最後には一番良い関係だった
実は1993年にワールドカップ予選が始まるときの日本は、6番目の国のグループの第2シードでした。つまりアジアの中で12番目だったんです。AFCはアジアの中の12番目のチームとして日本を見ていて、そこから1次予選がスタートしたんですね。日本はまだワールドカップに行ったことがありませんでしたから。
だけど日本のサッカーはJリーグがブームになってものすごく盛り上がっていました。1992年にはヤマザキナビスコカップが始まり、1993年はリーグ戦もスタートして、たくさんの観客のみなさんに見てもらっていました。
その一方で、実は代表選手は疲弊をしていたんです。リーグ戦ですべてを出し切っているので、キャンプに来ると野戦病院状態。戦術練習よりもリカバーがメインになっていました。代表チームに呼ぶことはもちろん戦術を理解させるというのはあるのですが、代表チームが選手を休ませる、リフレッシュさせる場になっていたという感じでしたね。
オフト監督はコンディションをしっかり見る人でした。昔のファイルを見ていると、選手のチェック項目がものすごくたくさんあるんですよ。そして各クラブに行ってチェックしたり、リハビリを見に行ったりということを繰り返していました。ラモスもヴェルディ川崎の練習が終わった後や休みの日に、横浜まで呼んでリハビリをしたことがあります。それをやることによってラモスと監督は、最後には一番良い関係になったと思います。
そんな中で、都並敏史が足を骨折したときは、本当にショックでした。オフト監督が真顔で話したことがあります。街に出て「あなたサッカーやってませんか?左サイドバック、できませんか?」ってずっと聞いて回りたいくらいだ、と。
それでも都並をドーハに連れて行ったのは、オフザピッチでいろんなことができるだろうと思ったからです。人の面倒を見るし、チームのことをいつも考えている。練習後の仲間のユニフォームを片付けたりとか、誰かの選手の部屋に集まって話をしていると都並は必ずそこにいる。そして自分の代わりの勝矢寿延なんかをすごくサポートしていたんです。そういう自分のこと以外をしっかりできるというのは、アイツぐらいです。
飛行機から降りるとき、荷物がターンテーブルで回ってくると、都並は率先して下ろしたりするんです。そういうのを見ていたので、浪花節でやっちゃいけないんだけど、こういう人間はチームに必要だって。そしてオフト監督は「ユー・アー・ノーマル」と都並に言ってたんですけど、痛み止めを打っても持つわけがないんです。
それでも都並は一緒に練習していました。日本は非公開練習をしませんでしたからね。もしかしたら隠さなきゃいけないことがあったかもしれないけど、日本はオープンでした。だけど他のチームはいろいろやっていました。
初戦のサウジアラビアは、ボランチのアミンという中心選手がケガをしているという噂があったんです。サウジアラビアも同じホテルでしたからホテルのフロントに「アミンは泊まっているか」って聞くと、前日になっても「来てない」と言うんですよ。ところが当日スターティングメンバーでしたからね。そういう情報戦という意味では、日本もスカウティングは相当しましたけど、日本の情報のほうがたくさん相手に漏れていたと思います。
オフト監督はドーハで不眠に陥っていたと思います。最終予選のときはほとんど寝てなかったんじゃないでしょうか。ホテルで朝起きてったら監督がコーヒーを飲んでるんですよ。「何時からいるんですか?」って聞いたら「6時から」と。「レストランのやってない時間じゃないですか」と言うと、「頼んだらやってくれた」って。
それくらい早く起きて、監督はメモをたくさん書いていました。トレーニングメニューだけじゃなくて、選手個々人が、どうなってるか、疲労してるとかケガしてるとか、その日のチェックリストみたいなのを作って、食事の時にチェックするんです。
実はUAEラウンドでは福田正博の食が細くなっていて、それで代えたというのがありました。そしてドーハではゴンの食事の量が試合を重ねるごとに落ちたんです。控えの選手で高いパフォーマンスを発揮していたんですけど、イラク戦では残り15分ぐらいにはオールアウト、つまりすべて出し切るような状態になったので、オフト監督は交代させたんです。
イラク戦は、相手が中3日、日本は中2日というハンデもあったと思います。そしてスタジアムに時計はありませんでしたが、私たちはすべて時間がわかっていました。
あの時はドイツのレフェリーで、オフト監督はドイツ語を話せるので、終わった後にレフェリーがアディショナルタイムの話をしてきたそうです。そのとき「缶が投げ込まれたからその時間を取った」とレフェリーがオフトに言ったという話を聞きました。
ドーハの悲劇を肯定してはいけない
最後のイラク戦の戦術がどの様に何が書いてあったかは、サッカーミュージアムにそのままが残っています。サッカーはどういう見方をすればいいか、負けることによって学ぶ、感じて得るというのがこの大会だったと思います。
私は「ドーハの悲劇」を肯定しちゃいけないと思ってるんです。
イラク戦が終わった後、私はチャーチルの言葉をメモに書いていました。「賢者は敗北に学ぶが、愚者は敗北に浸る」。なんでそんな言葉が出てきたのか……無意識でね……。失敗は悪いことじゃないんです。この敗戦からみんな失敗を恐れなくなった気がします。失敗しなければ、修正するチャンスはないですから。
実家は親戚が継ぎました。私はサッカーも「ドーハの悲劇」で戦犯なんですけど、お寺でも戦犯なんですよ……(苦笑)。
清雲栄純 プロフィール
法政大学を卒業後、1973年に古河電気工業に入団。翌年には日本代表にも選出。引退後は古河のコーチへ転身。1984年からは監督となった。1992年には日本代表コーチ、1994年にはジェフ市原の監督に就任。その後はU-18日本代表監督、大宮アルディージャGM、ジェフユナイテッド株式会社取締役などを歴任した。
1950年生まれ、山梨県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。